夜の路を、うきうきと駆け抜ける。
 後ろには、エステルに続くようにのんびりカシウスが。 早く、早くと急かすエステルにカシウスは「慌てなくても逃げないぞ」と 笑うが、時間はどんどん流れるではないか。即ち、いられる時間も短くなる。
 それに……口に出して言わないが、父がいる。一緒に、ロレントのお祭りに 遊びにいってくれる。毎年あるのだが、仕事が無ければシェラザード、 そちらもいなければエルガー夫妻が付き添ってくれる。 カシウスと2人でお祭りに来るのは初めてだった。
 ――――3人……そして、母と2人でならかつて遊びに来たのだが。
 日ごろからのどかで、夜は静かなロレントは今日は雰囲気が違う。 道沿いに夜店が並び、街の人々が大勢行きかう。別の地方から来た観光客もいるようで、 見知らぬ顔を多く見かけた。
 きらきらと、色とりどりの光が街を彩っている。エステルが歓声を上げていると、 カシウスが「エステル!」と声を掛けた。
「どう使おうと自由だが、食い過ぎるなよ?」
「むっ、しっつれーね! えへへっ、ありがとーおとーさん!」
 掌にのせられた軍資金。それをギュッと握りしめて、いざ祭りへ行かん。 エステルは意気揚々と走り出した。 1つの場所に留まってなどいられないといった様子のエステルを見送って、 カシウスはふと微笑む。そして、人々の波をスイスイくぐり抜け、喧騒の外へ…… 時計台があった場所の傍らに、腰を下ろす。地べたであるが、今日は祭り。 あちこちで酒と祭りの空気に酔ってか、座り込みながら歌っている者、 1つの宴会を始め出す勢いの人々……様々だ。
 カシウスは其処から、エステルが右手にフランクフルト、もう片方にかき氷。 口には煎餅をくわえて移動しているのを見つけ肩を竦めた。


「金魚すくいー! すくった金魚は家に持って帰られるよ!!」
 そんな声が耳に入り、エステルはピタッと足を止める。 先ほどから腹ごしらえはして、夕食以上に祭りの『食』は堪能した。 しかし祭りといえば『遊び』である。
 エステルは金魚すくいが大好きだった。それに、子どもながらに瞬発力に恵まれていた エステルはとても上手かった。同じ日曜学校の友人に頼まれて金魚をすくうことも 何度か経験している。
 しかし、釣りと違うところは家に持ち帰らないことだ。金魚すくいを楽しむだけで、 毎年終わっていた。なんせ食用には出来ないし、水槽が家に無い。それらしい物は あるのだが、どれも虫で満員である。
「おっ、今年も来たね、金魚すくいキング!」
 毎年来る金魚すくいの夜店を出す初老の男性とは顔なじみ。髭がもじゃもじゃで、 服には金色の鳥の刺繍がほどこされている。以前聞いた話では、共和国から来たらしい。
「えっへへー! ことしも会えたね!」
 エステルは気さくに笑った。


 ビー玉すくい、射的、輪投げ……。
 途中でティオやエリッサ、日曜学校の同期である面々と談笑しながら、時間は過ぎていく。
「そろそろだね」
「うん、そろそろよね〜」
 ティオとエリッサが楽しげに口を揃える。再びかき氷……最初がイチゴだったので今度は レモン味、をシャリシャリ崩しながら、エステルは首を傾げた。
「――――ほら、きた!!」
 街の人々が歓声を上げる。空に浮かび上がる大輪の華に。鮮やかな色彩が街を照らし出す。 その光景は今を忘れるほど美しく、人々は次々に打ち上がる花火に見惚れた。
「ね、エステル。綺麗だよね〜」
 エリッサが言い終わる前に、エステルは走っていた。
「ごめん、また明日!」


 色んな色の光に照らされてるカシウスを見つけるのは容易かった。 かつて、ロレントの象徴である時計台があった場所。行きつく場所は自然とそこだった。 カシウスはじっと、空に描き出される華を見つめている。
「おとうさん!!」
「……ん、何だエステル? 随分息を切らして……どうした?」
「おとうさんに、これ、あげるね」
 残しておいたポップコーンの袋をカシウスにグイとやや強引に渡すエステル。 娘の真剣な表情に、カシウスはいつものように笑った。
「父さんにくれるなら、美味いお酒が良かったなーって」
「ぜいたく言わないの! それに、子どもに売っちゃダメって言われたもん」
「……って、買いに行ったのかエステル?」
「シェラ姉、いつも行ってるよ?」
 エステルのあっけらかんとした返答に、カシウスは思わず頭を抱えた。
「――エステル、花火が終わったらのんびり帰る準備しろよ?  父さんは此処でポップコーン食べてるからな。挨拶して来なさい」
「…………うん!」
 鉄砲玉のように飛びだすかと思えば、ふと後ろを振り向き父の顔を 確認してからエステルは、走って行った。そんな背中を見送りながら、カシウスは苦笑した。
「父親形なしだな、まったく」
 ポップコーンの固まりを、口にポイッと投げ頬張る。エステルが買ったポップポーンはキャラメル味。
 ――――とても、甘かった。


 友人に一通り挨拶をすませ、最後にエステルは「また来年会おうね!」と毎年挨拶を する金魚すくいの店主の元へ向かった。 もう夜店を片付けるところも多く、金魚すくいもその1つだった。
「おじいちゃーん!!」
「おお、キングか。今年もやってくれたもんだ」
「えへへ」
 友人の為に今年も何度か腕を奮ったエステルである。年々、その腕はお見事と称するしか ない出来栄えになっている。元よりエステルが街の人々に親しまれる少女であったが、 その腕は周囲に観客が生まれる程であった。店主としても、なかなかこの天真爛漫な 少女はありがたい存在であり、好ましかった。
「…………あれっ?」
「どうした?」
「一匹、残ってる?」
 水槽の中に、黒い点が1つ。金魚すくいは殆ど紅い金魚が主で、派手で明るい色は祭り客からも 好まれた。そういえば去年までは紅い金魚だけだったが、今年は黒い金魚もいたな、と エステルは振り返る。
「ああ、売れ残りさ。黒はイマイチ、ロレントじゃ受けないようだ」
「ふ――ん……」
 ふわふわと、水の中を泳ぐというより力を抜けばそのまま浮いてしまうような力の無さ。 しかし思い出したように尾びれを動かし、黒い金魚は泳いでいた。 そしてまた、じっと動かなくなって……を繰り返す。
 エステルの眼はその様子に釘づけになっていた。
「もう売りもんにならんなぁ」
「……あの、ね。この子、あたしがもらっていいかな?!!」
 気がつけば、声に出していた。金魚すくいは名人級だが、一度も金魚を家に持ち帰ったことの ないエステルの申し出。店主は「ふ……む」ともじゃもじゃの髭を手で梳いてから、 にっこり答えた。
「他の誰でも無い、キングの頼みだ。いいだろう、持って帰りなさい」



「おとーさーん!」
 エステルの声が聞こえ、カシウスは顔を上げた。 随分時間がかかったようで、人もかなり減ってきている。祭りの明かりも、 徐々に消え始め、いつもの静かで穏やかなロレントに戻りつつあった。
 娘の姿を確認して、ぱっと目に入ったのは右手にぶら下げている透明の袋。 その中には水が入っていて、なんとも頼りない泳ぎ方の金魚がいた。 袋の中にいる黒い金魚は泳いでいるとは表現し難い。
 それよりも、だ。いつも金魚は持って帰らないエステルが、突然それを持っている ことにカシウスは「ふむ……」と思った。特に深刻になる必要はない。 ただ、エステルの心境に何かあったのは確かなようだからだ。
「エステル、金魚は食えんぞ。知ってるか?」
「しってるもん!!! あのね、おとーさん。この子、1人でのこってたの」
 そこからエステルの拙いながらも懸命な説明が開始した。 要するに売れ残った最後の1匹が気になり、持って帰りたくなったということである。
「…………まぁ、そうだな……行くか」
「え?」
「リノンのところに、小さい水槽ならあったかもしれないしな。帰りに寄るか」
「…………うん」
 エステルは、右手をゆっくり上げてふわふわと水の中を動く金魚を見つめた。 普段のエステルから程遠い、繊細な動きだ。
「だいじょーぶだからね……?」
 横を歩くエステルの声がとても柔らかで、カシウスは眼元をふっと和らげた。 今は、娘の思う通りにしてやろう……そんな気持ちで。



 エステルはまず金魚の飼育する方法を、本で調べた。 勉強は苦手な少女であるが、興味があるものに関する吸収力は人一倍良いのかもしれない。 餌を買って、少しでも負担が少ないように慎重に水を交換して。
 餌は、ほんの少ししか金魚は食べなかった。元より金魚は大食いでは無い。 それでも、一粒、二粒はどうにか食べているようで、それを確認してはエステルはほっと 息を吐くのであった。
 ――――結局、金魚は3日間で死んでしまった。
 貰った時点で、泳ぐのがやっとだったのである。餌を与えると、必死に水面まで泳ぎに行くが、 尾びれは力無く水を蹴っていた。ゆっくり、ゆっくりと、泳ぐ為に。
 きっとそれは食べる為以上に、動く為に。泳ぎたいように見えて、エステルはそんな金魚を 見ては声に出して応援したり、心の中で念じたりしていた。
 だけど日曜学校から帰ったら、あっけなく金魚は死んでいたのだ。


「…………死んじゃった」
「そうだな」
 書類を持って帰ってきたカシウスを迎えたのは、いつもの快活さがなりを潜めた娘だった。
「あのね、おとーさん」
「何だ……?」
「あたしね、きれいな水で泳いだり、エサいっぱい食べてほしいからがんばったけど。 …………クロは、しんどかったかなぁ?」
 クロとは、家に持って帰った時にエステルがつけた名前だ。その身体の色の通りの、 シンプルな名だ。
「エステルが持って帰らなかったら、金魚……クロは、処分されていただろう」
「えっ」
「命が何日か延びた。それは事実だ。お前が言うように、しんどかったかもしれんが…… 父さんは、金魚じゃないからなぁ」
「――――しんどかったのかな…………」
 両手の掌に乗せられた、小さな黒い金魚。
 商品として育てられ、お祭りに出され、売れ残り。既に満身創痍であったところを エステルが最後に見つけて、家に持ち帰って……たった3日間の出来事。
「頑張って、世話してやったんだろう?」
「うん……」
「それも、事実なんだ」
「うん……」




(確かに、懸命だった……1日でも、生きてる姿を見ていたくて……あたしは)




 ――――徐々に、覚醒していく。
 肌を外気に晒したままの肩が少し肌寒い。だから、目が覚めてしまったのだろう。
 すぐ目の前には大切な青年の顔があって、エステルは眼元を和ませた。 此処は共和国の辺境の町。訪れたタイミングが町の祭り期間で、仕事の後に エステルとヨシュアも異国の文化を楽しんだ。そして、いつもと違う空気と熱狂に 浮かされたように、……それを、言い訳にして。2人で肌を重ね合った。恋人と過ごす、 何度目か分からない、これからもこんな日が続くことを願う夜。
 黒髪に、そっと手を伸ばし、指に絡めて遊ぶ。
「クロと同じ色」
 ぽつ、と空気を微かに震わせるだけの声であったのに、ヨシュアはゆっくり目を開いた。 ヨシュアの眠りは殆ど浅い。それは彼の身に染みついた習性なのであって、 エステルを信頼していないということには繋がらない。 だけど、時々ヨシュアもじっくり眠ればいいのに、とエステルは思っている。
「……クロって、誰?……猫?」
 猫と同じように例えられるのはどうかと思うが、ヨシュアはエステルに聞いてみた。 返って来たのは予想外の答え。「金魚」という簡潔な一言だった。
「金魚?」
 驚きと疑問が声に混ざり、エステルは可笑しくなってそのまま笑いを堪えるように ヨシュアの首元に顔を預ける。そこでふっと浮かんだ問い。
「ねぇ、ヨシュア……」
「なに、エステル?」
 突然、神妙な雰囲気のエステルに、ヨシュアはいつもの様に愛しい名を呼んだ。
「――――今、ヨシュアは……」
 寝起きの掠れ声だが、ヨシュアは正確に読み取り柔らかく微笑んだ。 エステルの声を聞き逃す筈など無いだろうと言わんばかりに。
 顔の位置を少しずらし、ヨシュアは耳元で囁く。何故、今それを聞くのか ヨシュアには分からない。しかし疑問など不要な、ごく当たり前の言葉しかヨシュアは 持ち合わせていなかった。たった一言だけでいいのだ。 まるで華咲くような笑顔が、ヨシュアへの答えだった。
 ――――そして、再びまどろむ。2人で、ゆっくり……沈むように。
 其処は力や意志は必要なくて。きっと、身を委ねるだけが許される場所…………。







 クロは、ブライト家の庭にエステルの手によってお墓を作られた。
土に埋めて、上にそれらしい石を置くだけの簡単なものであったが、 少女にとってそれが精いっぱいだった。
 エステルとカシウスは並んで手を合わせる。エステルの手は土で汚れたままだった。
「……ね、おとーさん」
「何だ、エステル?」
「クロ、幸せだったかなぁ?」
 エステルの問いに、カシウスは答えでは無く問いを投げた。
「……それは、エステル。お前が決めることなのか?」
「…………」
 木々が風に揺れる音。川のせせらぎ。いつも聞こえる、ロレントの自然の音。 そして、よく知っている父の声。なのに、今日は耳にじんと響いて……。
 歯を、グッと食いしばった。声が漏れそうになったから。





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