まず目に入ったのは、真白い天井だった。自室とは違うけれど、鼻を掠る臭いが今、何処にいるのかを認識させた。
ここは、月に一度は必ず足を運ぶ場所……病院だ。
ここ十数年感じたことのない身体の重さに違和感を覚えながら、ゆっくり顔の角度を変えてみる。
眩しい光がカーテンの隙間から差し込み、部屋を柔らかく照らしていた。その白光のラインの先には……。
「お父さん」
声が微かに震えていた。手に持っているのは、いつかこんな本を作る人になりたいと夢物語のように話していた本。
内容はたしか、一時の魔法によって自由を得る儚い少女の話だ。
不安がありありと滲んだ表情に、大丈夫だと伝えるべく身体を起こそうとするが、背中、そして腕に痛みが走った。
同じ色の髪を揺らしながら、気遣わしげに「無理しないで」と背中をさする。その手も、小刻みに震えていた。
今、動いても不安を煽るだけだと分かり再びベッドに横たわった。そこでまた、気付く。
窓際のサイドテーブルに飾られている花瓶。花の種類は以前見たものと違うが、それは娘が入院した当初に殺風景だからと病院の看護師一同から贈られたものだった。
そんな情緒的なことに思い至らない自分を改めて思い知ったのを覚えている。
「ここ、は……」
「うん。私が使ってたお部屋……」
かつて、シンプルな機能性だけを重視した椅子に自分が座っていた。ベッドで横になっていたのはいつも娘だった。
娘は目を細めながら、窓から外を見つめて本の物語を話す。そして元より多弁ではない父親の近況報告に、耳を傾ける。嬉しそうに、時に心配げに。
それが、二人にとって限られながらも尊い時間だったのだ。
「この花はね、セシルさんが選んで、活けてくれたの」
「そう、か」
病院で何度もすれ違って、挨拶を交わしている看護師の名前だ。若手の中でもリーダー的存在の看護師であり、シズクの担当だった。
それ以前から、彼女とは遠く近しく、業の深い縁がある。当然、娘は知らない。
「枯れそうになったら、いつも違う色の花を見つけて、活けてくれたみたい」
みたい、という言葉には間接的にしか分からなかった境遇を物語る。言葉でしか、色を認識できなかった哀れな娘。
その眼は今、奇跡の力によって光を取り戻している。
ベッド上で目を閉じてみた。それで娘と同じものを感じられるとは思わない。鼻につく薬品の臭い、窓の外から零れるせせらぎ、そして目を瞑っても感じる光の温もり。
同時に、意識してそれらを感じ取ろうとする自分。娘が感じていた世界とは、きっと大きな隔たりがあるのだろう。
「……シ」
名を呼ぼうとしたら、娘はやんわり頭を横に振った。表情は、とても穏やかだ。
ふわりと空気を揺らした髪の香りは、かつて共に住んでいた頃とは別のもの。病院にいた頃とも違っていた。
真っ直ぐ、世界を見つめる光を取り戻した娘はこちらに向かって微笑んだ。
「私は、何処にでもいるから……いられる、から」
浮かんだ表情は雄弁だった。そこに涙は浮かんでいない。これからも、きっと。
「自由になって……お父さん」
質素な布団の上に、娘の重みがゆっくり伝わった。顔を伏せ、小さな体は必死に耐えていた。……何に、と聞くまでもない。
だからそれ以上言うな、言わないでくれと半ば懇願に近い言葉を発しようとしたが、声が出なかった。
「私のことなんて、気にしないでいいから」
瞳を見ているようで、貫いたその先を見据えているようだった。
(ああ、これが……)
――――否。罰ではなく、咎なのだ。
小さな掌が固く、きつく握られている。その拳を解く術さえ、見つけられない。
謝罪は赦しなのか、感謝は甘えなのか。
(ここまで来てしまったのだ)
せめて、と。異物のようにさえ感じる腕をゆっくり上げ、その藍混じりの黒髪をそっと撫でた。
娘は慈悲のような微笑みで、それを受け入れるのだった。
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