カチ、カチ、カチ……。
 時計の音と、定期的にページをめくる音だけが響く部屋。
 元より、そんなに広くは無い。2人で暮らすには 不自由は無いが、悠々としたスペースがあるとも言えない空間。 そして、それがエステルとヨシュアが共に暮らすと決めた心地よい距離だった。
「……言ってたより遅い、な」
 ヨシュアは椅子に腰を下ろしつつ時計に視線を移す。時刻は夜9時をまわっていた。
 家族でありパートナー、そして恋人であるエステルは現在、釣りに行くとはりきって 出かけた後だった。かれこれ3時間は経過している。
 エステルの実力ならば、クロスベル周辺の魔獣は1人でも余裕で撃退できるだろう。 本人もだからこそ、本日の仕事を終わらせた後、この時間帯に行ったのだ。 ただし、信頼はしているが心配がなくなる筈もなく。
 とにかくエステルは夢中になると周囲が見えなくなる事がある。 集中力が優れているとも言えるが、今回は約束の時間も忘れて大物を釣り上げるのに 夢中になっているのだろう。エステルが帰ると言っていた時刻は8時。 とっくに1時間過ぎていた。
 カチ、カチ、カチ、カチ…………。時計の音だけが、響く。
 ヨシュアは読みかけの歴史書をぱたんと閉じ、腰を上げた。 いくらエステルの実力があるとはいえ、夜の方が魔獣が凶暴になる。 昼間と違って視界も悪いだろう。……等と理由はたくさんあるが、要するに 大切な恋人たるエステルがただ心配なだけであって。
「……まったく、大漁なのかな」
 口元を刻むのは苦笑。柔らかな、ヨシュアが負うべき、そして分かちたいと願う彼女の困った部分。 きっと「ごめんねヨシュア! 見てみて、いっぱい釣れたんだ!」と 無邪気に釣果をお披露目するに違いないのだ。
 出かける為に武具と道具一式を収めたポーチに手を伸ばそうとした時だった。
 コンコン、とノックの音。
(ああ、帰って来たのか)
 一言ぐらいはお小言を浴びせないといけないな、と思いつつヨシュアはドアを開く。
「エステ……」
「遅くなってすまない、ヨシュア」
 最初に耳に入ったのは、男性……同年代の少年の声。 それも、良く知った……特務支援課で日々駆けまわっているロイドだった。
「遅くなってごめんね、ヨシュア」
 そのやや斜め後ろに、エステルが立っていた。左手にはクーラーボックス。 もう片方には棍。ロイドは左手に2本の釣り竿、反対側にトンファーを器用にまとめて持っていた。
 それよりも、だ。エステルの出で立ちである。ロイドがいつも来ている警察のシンボルが 刻まれたジャケットを上に羽織っている。……というより、明るい栗色の髪からは 水が滴っていた。服も、下のスカートも。つまり、ずぶ濡れであった。
 ロイドもそれは同じで、前髪から雫が落ちている。 全身濡れていたが、エステルに気を遣ってジャケットを貸したのであろう。 そのジャケットは辛うじてびしょ濡れでは無いようであった。
「えへへ、釣りしに行ったらちょうどロイド君に会ったんだ。狙ってるスポットがぶつかっちゃって」
「話し込んだり調子よく釣れだしたらお互い時間を忘れてしまって……。すまない、ヨシュア」
 あっけらかんと、悪戯が見つかったような表情で言うエステルと、 頭を下げるロイドはなかなか対照的である。
「いや、ロイドが謝らなくていいよ。それより、エステルが世話になったようでごめんね」
「そうだ、ロイド君! このジャケット洗濯して乾かして……。あっ、これって制服だよね?  どうしよう!?」
 ジャケットを脱ごうとするエステルを、ロイドはぎこちなく微笑みながら手で制した。 目は、エステルからやや外して。その態度にエステルが僅かに首を傾げた。
「いやいやいや、大丈夫だから。ほら、他の皆も私服だろ? 急がなくていいから」
「……ん、そうなの? じゃあ洗濯してから届けにいくわね」
「あ、ああ」
 ホッとしたように微笑むエステルに、やはり視線を泳がしてロイドは頷いた。
「…………今日は、本当にありがとう。あんまり引き止めると悪いよ、エステルもお礼言って」
「あ、うん。ロイド君、ありがと! また一緒に釣りしようね!」
 無邪気に手を振るエステルに、ロイドは「ああ」と笑顔で同じく手を振った。 ロイドを見送って、エステルは漸く家に足を踏み入れる。ヨシュアが手元にパスした真っ白い タオルを受け取り、やっと一息である。
 その間も、髪から雫がぽた、ぽた……と床を濡らした。
「ヌシレベルのが引っ掛かった時に大きめの波を被っちゃって。あたしもロイド君も びしょ濡れになっちゃったんだ、あははっ!」
「――――本当に、びしょ濡れだよね、まったく」
 ヨシュアの口調は淡泊だった。 その静けさにエステルはきょとんとヨシュアの顔を見返す。 ヨシュアは当初、一言、二言。呆れた口調でお小言を吐きだして終わらせるつもりだった。 しかし事情が変わった。いつもならタオルを渡した時点で風呂でも沸かすなどして エステルが風邪をひかない為にあれこれ世話を焼くのだろう。そう、いつもならば。
 エステルはまだロイドのジャケットを羽織っていた。警察の制服、というものに 好奇心が刺激されたらしい。ジャケットのシンボルを見たり、腕を伸ばして袖を色んな角度から 観察したり。…………一言で表すと、とても楽しそうだ。
(無邪気なもんだ)
 それが、ヨシュアの中で燻ったものを更に煽る。エステルはまだ気付かない。 自分が今、どういう恰好をしているのか。どんな状態でロイドといたか。
 タオルに髪の水分を大雑把に吸い取らせて、エステルが脱衣所……といっても立て掛けで 区切っているだけなのだが、洗濯かごにタオルを投げいれようと腕のスナップを利かせたと同時だった。
「――――エステル」
「ん? なぁ…」
 に、と答える前に後ろから抱きすくめられ言葉が掻き消えた。
 気配は感じていたが完全に油断していた。後ろから耳、うなじ、首筋と唇が辿る。 水で冷えた身体だからだろうか、ヨシュアの吐息が普段より更に熱く感じさせた。 ぺろ、とヨシュアがエステルのうなじを舐める。
「……しょっぱい」
「そ、そりゃ海水なんだからしょっぱいに決まってるわよ!」
 やや語気を強めてエステルが言い返す。そんなやり取りの間も、ヨシュアの腕はエステルの腰、 そして腹部をがっつり後ろから固定していた。右手は腰に巻きつけたまま、 徐々に左手が身体の中心をなぞる。
「あの、ヨシュア……このままじゃあたし、風邪引いちゃうんですケド」
 解放してくれないヨシュアに、今度はやや窺うように声をかける。後ろに立つヨシュアの 表情は見えない。ただ、手が徐々に濡れたシャツの上からエステルの 乳房の周囲を辿る。緩やかさよりもどかしさを感じる自分にエステルは羞恥心を覚えた。
「ひゃっ!?」
 エステルの視界が突然、グルッと動いた。
 後ろから、所謂『お姫様だっこ』されたと気付いた時にはベッドに下ろされていた。 全身濡れた状態のエステルは、それがヨシュアのベッドと気付いて妙な冷静さで 「ヨシュア、ベッドが濡れちゃう」と自らの上に覆いかぶさるような位置のヨシュアを 見つめて言った。エステルの言葉にヨシュアは一瞬だけ苦笑、そして悪戯っぽく笑い返した。
「じゃあ、明日からエステルのベッドを使えばいいじゃないか」
「なっ!?」
「これ、脱がすね」
 動揺するエステルをよそに、背に手をまわして上体を起こさせ、ヨシュアがやや荒っぽく ジャケットを脱がす。床に、水分を大いに含んだジャケットが重い音を立てて投げ落された。 いつものヨシュアなら、人の……しかも、友達になったロイドの私物をこんな粗野に扱わない。 エステルは不審げな目でヨシュアと視線を交わす。
「ヨシュア、どうかしたの?」
「エステルがどうかしてる。こんな恰好で、……彼といたんだ?」
 ヨシュアがロイド、と名前を呼ばなかったのは無意識だった。年齢が同じで、友人で。 そしてエステルにとってはクロスベルで見つけた同じ趣味を持った仲間であり……。 その近しさが余計、そうさせたのかもしれない。ロイドが悪いんじゃないんだ、とヨシュアは 自分に念を押す。
(そう、悪いのはこの目の前の能天気な……)
「えっと、だから、こんなびしょ濡れだからシャワー浴びたいんだけど」
 相変わらず組み敷かれた状態は解かれず。エステルはいつもと様子が違うヨシュアに お願いしてみる。いつもならヨシュアの方から「風邪引くよ」と言ってくれるのだ。 それが、ヨシュアなのだから。
「……約束破ったから怒ってる?」
「水色。可愛いね、似合ってる」
「へっ?」
 突然、何を言われたのかエステルには理解できなかった。
(水色? 水色? 海の色は水色?)
 自ら回答を導きだす前に、ヨシュアが右手をシャツの上から乳房の中心に添えた。 触れるだけの、掌の熱さと、濡れたままのシャツの冷たさ。ゾクリ、と一瞬鳥肌が立つ。
「ロイドが何で濡れたジャケットを貸してくれてたか解る? 夜で良かったよね、 そんな恰好で」
 右手にやや、力が加わった。胸の突起が微かに痛みを感じる。 思わず声を出しそうになって、漸くヨシュアが何を言っていたのか理解した。
 急激に頭が真っ白から真っ赤に移り変わる。改めて視線を落とし、自分の状態を エステルは観察した。
 …………確かに、今日は水色のをつけていたな、と何故か心の声は冷静。
「冷やしちゃ悪いね。せっかくロイドが送ってくれたんだから」
 今度は名前を出したのは意図的。ヨシュアは内心、子供じみてるなと自嘲した。 しかし無邪気で、無防備すぎる恋人に解らせてやりたい。
 背中に再び腕をまわし、片手でエステルのシャツを脱がせる。 今度はエステルも自分でシャツを床に投げる。やはり、水分を吸収したシャツは 重い音と共に落ちた。
 シャツの下から現れたブラジャーは水色の、控えめに花柄のレースがあしらわれたものだった。 活動的で、趣味は昔から少年っぽさを印象に残すエステルであるが、 しっかり女性なのだ。下着はいつも、派手ではないが可愛らしい、清潔感あるものを好む。
 何より、同年代の女性と比べれば決して小さくない、豊かな膨らみが女性であることを 示している。前にあるホックを外すと、美しい形の乳房がヨシュアの胸板の下で揺れた。 互いの胸が、熱を帯びてきた呼吸と共に上下する。
 乳房の間をヨシュアが丹念に舐めるのを、エステルは腕を口元に押し当てて受け入れた。 上半身は触れられる度に加速的に熱くなるのに、下半身が水を含んだミニスカートで重く冷たい。 ぶる、と身震いしたことに気付き、ヨシュアはエステルの腕を解かせ唇にキスを落とし、舌を絡め込む。 そして、悪戯っぽく笑った。
「邪魔なの、取っ払おうか。身体で暖を取るって原始的だね」
 ヨシュアがスカートを外すのを、エステルは顔を赤くさせつつも腰を浮かせて手伝う。 確かに、寒い。脱いだ途端外気に触れ、再び震えがきたが直ぐに燃える様に熱い肌が触れ、重なる。
 ヨシュアが再び乳房を舌で愛撫し、中心の突起を甘噛みする。反射のように嬌声を漏らしそうに なるが、咄嗟に腕で口元を押さえた。
 そこでふと、エステルが気付く。先ほど、ヨシュアに舌を絡められてから塩辛さが口の中に広がっていた。
(ううっ、女の子なのに…………塩っ辛いってどういうことなのっ)
 どうもこうも、エステルの行動の結果であるのだが。 無性に恥かしくなってヨシュアの胸板を、力の入らない手で離そうとするも叶わない。
「今日のエステルは磯味だね」
「ううう、言わない、でって、……ッ」
 途中で言葉が続かなくなったのは、先端をざらりと舐めあげられたから。 左手は空いた乳房を緩やかに撫でつつ、右手は徐々に位置を下ろしていく。 中心に辿りついたヨシュアの動きと呼応するように、抑えきれないエステルの鼻にかかった嬌声が大気を震わせる。
 ヨシュアも荒っぽい手つきで自らのシャツを脱ぎ捨てる。その様子をエステルはぼんやり、 しかし食い入るように視界の中心から離さなかった。
「まさに、まな板の上のお魚だね、エステル?」
 熱い息が顔にかかる位置で、ヨシュアが顔を上げエステルに告げてからキスをする。
「あたしは、ヨシュアと一緒に、およぎたい……っ」
 熱に浮かされたような瞳で、頭の芯が燃え朽ちたような心地のまま、エステルは答えていた。
「まな板は、およげない、よ? 海を」
 幼子のような、拙い言葉。くくっとヨシュアは声を抑えてまた笑った。
「そうだね、それじゃあ、およげない……」
 ヨシュアが言い終わると同時に、今度はエステルからキスをした。離してからちろり、と 唇を舐めるとやっぱり辛い。それが、今度は妙に可笑しくなってきてエステルは微笑んだ。 普段のエステルからは遠い、艶めいた笑顔。ヨシュアだけが知る、エステルの一面。
 ヨシュアはエステルが首に腕を巻きつけてくるのを確認してから、躊躇わず一気に最奥を貫いた。 エステルが苦しげに口をパクパクさせる。何を言っているか聞き取れない。
(ああ、本当に魚のようだ)
 自由に海を行きかう真っ赤な美しい一匹の魚。独占したくて、手元にいて欲しくて、 ……自分の思う通りにしたいという残酷な性が、彼女をこんな狭いベッドの上に押し付けている。 罪悪感はあっても、今は欲望が勝ってしまう。
 何度も、何度も。エステルはベッドの上、ヨシュアの腕の中で喘いだ。
 エステルの腕はヨシュアの首から、頭、そして背中と、動きに合わせてずれていく。 ただ、きつく抱きしめる力は変わらずに。
 遂に中で果て、ヨシュアはエステルの胸の中に身体を沈めた。冷たかった身体は、 いつの間にか灼熱のよう。汗ばむ肌と肌が密着度を高め、鼓動がダイレクトに響き合う。
 …………お互い呼吸を整えてから、先に口を開いたのはエステルだった。
「ね、香りが、する」
「……ああ、そうだね」
 埋めていた顔をずらし、ヨシュアはエステルの頬に触れるだけのキスを落とす。 幸せそうに、エステルは柔らかく微笑んだ。それを見て、再びヨシュアはエステルの首元に顔を押しつけた。

(――――そっか、君は……)
 脳裏に過ぎったイメージを打ち消すように、もう一度ヨシュアはエステルを強く、果てるまで掻き抱いた。
 呼吸なんてままならなくていい。互いに与えあう酸素だけを求めるまで。




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