先日の結婚式が心境の変化をもたらしたのであろうか。
カシウスは静まり返った夜の空気を感じながら、ウイスキーを片手に複雑な思いに駆られていた。
久しぶりに家に帰ってから、カシウスは子ども達から重要な話を持ちかけられたのだ。ヨシュアからエステルに婚約をまず申し込んで良いだろうかと相談され、その次には……。
『ねぇ父さん、結婚した時って、どんな気持ちだった? お母さんもどんな気持ちだったのかなぁ』
さりげなく出た言葉であったが、お互いがいない時にカシウスにそんな話をふっかけてきたのだ。時が近いのだろうかと思いきや、エステルとヨシュア、それぞれに思うところがあるらしい。一言でいえば、迷いだ。
確かに結婚をしなくても家族であることに代わりは無いが、それなりに花嫁という存在に憧れを抱き、なによりレナを愛していたエステルだから願望はあるのだろうと思っていた。ヨシュアも、エステルが望めばいつでも応じるだろう。
2人を知る友人の誰もがお似合いだ、将来が約束されていると答える。だからこそ2人にしか見えない不安要素もあるということか。カシウスにしてみれば、語弊はあるが娘を息子に奪われ息子を娘に奪われ、どちらも大切な家族のままで。複雑な心境に拍車がかかるが、夫婦となる道を選ぶのなら心から祝福するつもりだ。彼らが望んだのなら。
ずっとずっと以前から、それは決めていたことなのだ。エステルが生まれた時から、レナを失ってからも……。
今日は朝からエステルはレンと共にパーゼル農園におつかいだった。新鮮な野菜をお裾分けしたいという申し出を受け、元気な声で「いってきまーす」と出かけていった。
カシウスと自分のカップにコーヒーを注ぎ、ヨシュアは読みかけの歴史書を開く。反対側に座るカシウスは最新のリベール通信をめくった。穏やかな時間がそのまま流れていくかと思いきや、ヨシュアがそれを破った。
「……父さん」
「なんだ?」
カシウスも再び話を振られるだろうと予想していたので、ゆっくりページを閉じた。顔を上げると、ヨシュアの真剣な眼差しと視線がぶつかる。
「レナさんて、どんな人だった?」
「……ほう?」
カシウスはヨシュアをまじまじと見つめた。ヨシュアの質問がエステルの母でありカシウスの妻であった女性……レナに向かうことは殆どなかった。エステルが時折ぽつりぽつりと話したり、他の場所、たとえばシェラザードやステラから断片的に聞いたこともあったらしい。しかしヨシュアが直接カシウスに尋ねることは初めてだった。それは、亡くなった女性について聞くことへの遠慮以上に、ヨシュア自身が過去をエステルに伏せて生きてきたことが負い目なのかもしれない。エステルはヨシュアに過去を自分から話すまでは聞かないと約束した。だから、ヨシュアも聞かない。カシウスとエステルにとって、最愛の人との思い出の話を。
思えばとても不自然なことだとカシウスは苦笑してしまう。大切だから、家族だから……何があっても築いてきた信頼は変わらない。確かにその通りだろう。エステルはヨシュアのことを、過去を知らなくても弟だ、家族だ、ヨシュアはヨシュアだと言い続けてきたし、カシウスもそれを知っていた。しかし互いが1番根本的な部分をひた隠しでなくても口に出さず長い年月が過ぎていった。
ヨシュアの過去についてはエステルは旅の中で触れ、受け入れてきた。では、エステルのことは……?
「エステルの中のレナと、俺の中のレナは違うぞ?」
「うん、それでいいんだ。父さんにとってのレナさんて、どんな人だった?」
ヨシュア自身、夫婦というものを知らない。友人や知人の中で、もちろんエルガー夫婦やティオやエリッサの家のことは知っている。最近、夫婦になったリノンとキディだっている。そうではなくて、肌身で感じるもの、空気を知らないのだ。ヨシュアに姉はいた。平和な時間が続いていれば、今頃はレーヴェと結ばれていたのだろう。それは確信であったが、想像でしかない。自分の親の顔は、いつの間にか思い出すことも困難になっていた。
「空、だな」
「……すごく抽象的なんだけど……」
ヨシュアの困惑した表情に、カシウスはニヤリと笑う。
「エステルにも聞いてみたらどうだ? 俺の中のレナとエステルの中のレナ……それに、おまえも家族なんだ。ヨシュア、おまえの中にもレナがいていいと俺は思う」
「……うん、そうするよ」
しっかり頷くヨシュアにカシウスは満足そうだ。
「じゃあ聞くが。おまえにとってエステルはどんな存在なんだ?」
ヨシュアがレナのことを聞くことが初めてであると同じように、直球でカシウスがヨシュアにエステルのことを尋ねることも初めてだった。
「……っ」
ヨシュアは目を見開いてから、背筋を改めて伸ばす。
「エステルは……そうだね、僕にとっては太陽に等しい存在だよ。彼女の光が、僕の全てを肯定し……人間として生きることを教えてくれた」
「おまえも十分抽象的だと思うけどなぁ?」
「ごめん、難しいよね。思い知った。だけど……正直な想いだよ。僕の中でエステルはいつも揺るぎなく輝いてる」
臆することなくヨシュアは言った。
「揺るぎなく……か。そりゃあ大きいな」
「空も、広大だよ。女神と共にいる……父さんにとって女神に等しい女性だったってこと?」
それには答えず、カシウスはヨシュアに更に問う。
「じゃあ、エステルが揺らいだらおまえはどうするんだヨシュア?」
「エステルが?」
カシウスの切り口にヨシュアは微かに首を傾げる。エステルの強さはカシウスも知っている筈だ。なんせ、今カシウスがそれを肯定したようなものだ。女神がいる空……カシウスにとってのレナという女性。エステルにとっても大切で大きな人……。
「おまえにとって揺るぎない存在が、崩れたら。折れたら。おまえはおまえでいられるのか?」
「エステルが……エステルでいられなくなったら?」
それはヨシュアにとって想像つかない事態だった。いつだってエステルは、ヨシュアの前では時に眩しく焦がれ、そして柔らかい陽光を与える存在であったから。
一方、カシウスは知っている。自分の娘が、自分を見失ってしまった姿を。今あるエステルの強さは、ヨシュアの為に失い……再びエステルとヨシュアの二人で勝ち得た姿だ。
だから、カシウスは見守ろうと思った。――否、見守るしかできないのだ。
「おまえにとって、ヨシュアはどんな存在だ?」
エステルに聞けば、きっとこう返ってくるだろう。
「ヨシュアはヨシュアでしょ」
カシウスには容易に想像がつくし、きっとヨシュアもそんなところだと思っているだろう。真実であるし、エステルらしいそのままの回答だ。
(あいつももうちょっと、更に踏み込んでるのかもしれないがな)
大切な存在。愛し合う2人。きっとそれさえ確かであれば、問題はない。結びつきは変わらず続いていくだろう。
それを、ヨシュアは由としなかった。不変ではなく、変化を。更なる1歩を求めての行動。
「ヨシュア」
「……なに、父さん?」
まだ困惑の残る生真面目な息子の肩にカシウスは手を伸ばした。
「俺はおまえのことも、いつでも応援してるからな。忘れるな?」
「ありがとう」
明朗な笑顔だった。
(さて、今度はどうなるやら……)
エステルはヨシュアに、カシウスが受けた質問を受けてどう答えるだろうか。解るようで、解らない気がする。
レナはカシウスの妻であって、エステルにとっては母なのだから。
2人の時間を悪戯心も入り混ざって妨害することもあれば、「もっとムードを大切にした方がいいわよ」と説教することもある。エステルとヨシュアの関係について、レンの態度は気まぐれだった。なるほど、確かにかつて『仔猫』と呼ばれていただけある。その気まぐれささえ愛らしく思えるのだから。
しかし、今はそんなことさえ考えさせたくはない。
いつものように晩酌が終わったカシウスが家の中に戻ったのを見計らって、ヨシュアとエステルはバルコニーに出た。レンも眠っているのを気配で確認した。万が一それが振りでも、今日は部屋で過ごすことを選んだのだろう。
だから、今は2人だけの時間。
それでも一夜を共に明かすのは気が引ける。熱が加速するぎりぎりのラインを行き来するような夜の逢瀬だ。
何度も啄ばむ様なキスを角度を変えて交わす。こんな時、エステルの方が理性的な場合がある。ヨシュアのエステルを支える掌が背、腰を強欲に引き寄せる意志を見せると、翻弄され行き場を失くしていた手にも意志が蘇り、トンとヨシュアの胸を叩く。その紅い眼は月の明かりの下でも熱に浮かされたように静かに揺れているのが見て取れた。それでもキッとヨシュアを睨み、懸命に抑えようとする姿は愛らしく、同時に恨めしい。
ヨシュアも元より本気でエステルに深く触れようとしているのではない。密やかな恋人とのひと時だと理解していた。
火が燈りそうになる手前で、エステルが顔を下ろしヨシュアの首にくいと押し付け、呼吸をゆっくり整える。
いつの間にか2人の身長差は開いていた。体格も、一見華奢だが均整のとれた肢体だったヨシュアは既に青年の持つ精悍さを手に入れつつあった。
呼吸が冷気に馴染む頃、2人はゆっくり体を放し横に並んだ。バルコニーから空を見上げると、星たちが各々の光を主張していた。朝も夜も、ずっと変わらず2人が重ねてきた時間の1つ。
「……今日、父さんに聞いてみたんだ」
「父さんに?」
甘美な熱をはらんだ逢瀬は終わった。ヨシュアは名残惜しさを感じつつも、カシウスと話したことをエステルにも聞いてみることにした。
「レナさんのことをね」
「お母さんの……?」
エステルは意外そうに傍らに立つヨシュアを窺う。その表情はカシウスのそれと似ていた。
「父さんにとって、レナさんはどんな存在だったかって」
「へぇ……父さんに」
エステルは直接カシウスにその質問を投げかけたことは無い。自分の眼、肌で感じたものが答えだから聞くという必然もなかったのかもしれない。
「……エステルにとって、レナさん。君のお母さんは、どんな存在だった?」
ヨシュアの言葉に、エステルは懐かしむように目を細めてから、空を見上げ、人差し指を高く掲げた。
「星……?」とヨシュアが同じようにエステルの視線の先を見据える。すると、エステルは緩やかに腕を下ろし、次に自らの胸に掌を当て、微笑む。
「あたしが指を差した先に必ずいてくれる。そしていつも、此処にいる……」
目を閉じた。掌はその中にある、大切なものを閉じ籠めるように胸に留まっていた。それは子どもが内緒で見つけた綺麗な石を誰にも見せたくないようにも見えた。
カシウスとは確かに違う、紅い瞳はレナの存在を肯定した。
「あたしをずっと照らしてくれる。この、胸の中で」
無邪気な瞳をヨシュアに向けながら、掌の奥に在るものは、今も隠されたまま。
それは、彼女の絶対的な……。
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