エステルとレンが仲良く手をつないで帰ってきたのは、伝言通り夕食時だった。
 今日の夕食当番はカシウス。料理の腕はヨシュアがブライト家では1番なのだが、手際の良さだとカシウスが勝る。1番苦手で、手際もいまいちなのがエステルなのだが、ヨシュアが時折「でも、上達の早さも1番だよね」と微妙なフォローで励ましている。延びしろがあるのは確かかもしれないが。
 帰って来た2人は女王陛下からお土産にと渡された紅茶を見せてから、グランセルでのあれこを楽しげに話しだした。談笑は途切れず食事は進み、食後には早速女王陛下お気に入りの紅茶をレンが淹れた。こういった手並みはレンが1番こだわりが強く、せっかくの高級茶を適当に淹れてはならないと名乗り出たのである。
「がさつなのよ」
「うぐっ」
 レンの容赦ない言葉にエステルはぐうの音も出ない。カシウスとヨシュアはそんなやりとりに声を出して笑った。
 王都で買ってきたチーズケーキと共に、和やかな時間は過ぎていった。
 レンが眠気を訴えるのを合図に、ブライト家は灯りをゆっくり消す準備に入る。エステルはレンにせがまれ、一緒に手を繋いで階段を上がっていった。
「レンもこういうところは子どもね〜」
「まだまだね、エステル。この時間帯に寝るのが美容にいいんだから」
 そんな会話が聞こえてくる。ヨシュアとカシウスも明日は朝早い。「おやすみ」といつものように挨拶を交わし、それぞれの部屋に戻った。
 会話の中、エステルは1度もヨシュアにロレントに残った理由を聞かなかった。 ――今までのように。


 しかし、思うところが無かった訳ではない。
 だからエステルは、こうして部屋のベッドで眼を瞑ってもなかなか寝付けないでいた。レンは買い物ではしゃいでいたせいか、早々に話を切り上げ部屋に戻っていった。若しくは、エステルの様子を感じ取ったのかもしれない。レンは、エステルの気づかない部分によく気づく。そう、まるでヨシュアのように聡いのだ。だけど、気づかない点も当然あって。それら丸ごと、エステルは大切に想っていた。
 気を張り巡らし、エステルはベッドから音を立てないように足をおろす。ふわり、と愛用しているネグリジェが揺れた。床がひんやりして、頭が徐々に覚醒していく。
 とても控えめに、しかし確実にメロディーが解る……そんな音がエステルの耳に届いた。ヨシュアのハーモニカだ。迷わず、エステルは向かった。ヨシュアがこの曲……『星の在り処』を吹いている時は、誰かを待っているのだ。その誰かが今、自分に対して向けられていることをエステルは知っている。

「やぁ」
「ヨシュア、まだ寝ないの?」
 バルコニーで、昨日いた場所で。ヨシュアは立っていた。エステルの気配を感じて振り返ると、柔らかく微笑む。エステルも、そう言いながらヨシュアの隣まで歩み寄った。互いの腕が、少し力を抜くと触れるぐらいの距離で。
 今夜も、空にはあまたの星が輝いていた。
「……なんだか、今日の父さん嬉しそうだった」
「え?」
「またあたしがいない間に内緒話でも増やしたの?」
 詰問ではない。悪戯っぽい探るような視線でヨシュアの顔をのぞき込むエステル。やはり血の繋がりからくるものなのだろうか。カシウスの思考に関してはエステルよりヨシュアの方が察することが出来る場合もあるが、機微に関してはエステルの方が時に敏感だ。
「まぁね。君のお母さんの話を、またね」
「へぇ……?」
 カシウスはヨシュアにどのように母を伝えたのだろうか。興味がない訳ではない。
「……聞かないんだね」
「ん?」
「今日のこと」
 普通に考えれば、突然訳も話さず離脱したのだから不自然であるし、聞くのが当然であった。それでも聞かないのは、これまでの2人の関係がそうやって築かれてきたからだ。それも、自然と。だけど、不自然で。
「……あたしが聞いていいことなの? 言いたくないことなら、聞かないって約束したでしょ」
「その約束は、いつまで続くんだろう?」
 ヨシュアの声に混じったものは、ほんの微かな不満だったのかもしれない。エステルはヨシュアの真意が掴めず、その琥珀の眼をじっと見やった。約束は、2人にとって尊いものであった筈だったのに。
「同じことを、君に言ったことがあるね。どうして聞かないんだと。 ……あの頃の僕にはそれが救いであったし逃げ道でもあった。エステルも今は知っての通りだと思う」
「うん……」
 約束があったから、ヨシュアはブライト家に留まれたのだ。約束が予期せぬ力で綻びを見せた時、ヨシュアはエステルの前から姿を消した。
「エステルは父さんのこと、剣聖カシウス・ブライトや軍人としての父さんの顔をほとんど知らなかった。結社にいた僕やレンの方が詳しいぐらいだ。知らなくても築いてきた時間があるから信じられる、肌で感じ取れる……エステルは僕にこう言ったんだ。それはとても素晴らしいし、僕にとって眩しいぐらい憧れる関係でもあった」
「ヨシュアもそうよ?」
 はっきり覚えている訳でははないが、そんなことを言ったかもしれない。エステルは自分の思い出の中を手探りしてみる。
「エステル、君はとても公平だった。だから僕もそうあるべきだと思っていた。だけど、それだけじゃ足りなくなってきたんだ」
 今度は、明確な不満をヨシュアは示した。エステルには解らない。約束は、まだ尊いままそこに……思い出の中に存在したから。
「知りたいと思った。知ってほしいと思った。僕は、君の中に……大切にしてる全てに踏み込みたいと願うから」
「大切にしてるもの?」
 エステルが大切にしているものならたくさんある。その中でも特別な存在の1人がヨシュアではないか。不思議そうな表情のエステルに、ヨシュアは小さく声を立て笑った。
「うん、解らないよね? 聞かなきゃ解らないことが僕たちには実は、とても多いんだ。言葉を交わさなくても伝わるものはあるし、僕の想いは君に通じていると信じてるよ。でもね、それは僕の想いであって……僕は、君自身のことを知りたい……深く」
「あたし自身?」
 それこそとっくに知っているのではないか。エステルはそう思うのだが、ヨシュアの眼はそれを由としない。
 夜風が冷たくなってきた。ネグリジェのままのエステルの肩が僅かに震えると、躊躇い無くヨシュアがエステルの両肩に腕をまわし自らの腕に閉じこめた。
「君が思ってるよりも、もっと深く」
 乞うように囁かれても、エステルにはやはり解らない。解らないということは、エステルにとって苦になるものではなかった。答えがきちんとあるのなら、エステルは待ちもするし知らなくても相手を認めることができる。本当に怖いのは……。 エステルの心に、ひやりとした冷水が滴る。
「――最初は、あの大きな虫だった」
 唐突なヨシュアの言葉に、エステルは頭をわずかに動かす。それが、「どういう意味?」と聞いているのだとヨシュアには伝わった。
「さっき話してた約束をした日のこと。エステルは僕に、大きな虫を見せて元気出してと言ってくれた。その時に、約束もしたよね。僕が話すまで自分からは聞かないって」
「……う、うん」
 ずいぶん時をさかのぼる話だが、エステルもよく覚えている。伝説のアノ虫をヨシュアの為に捕まえた日のことだ。
 思えば、それはヨシュアにとって祝福と共に呪縛が始まった日だったのかもしれない。呪縛といってもヨシュアが自ら選びとったもので、意志さえあればすぐに解ける程度のものだった。それに、得たものの方が明らかに大きいのだから。
「当時の僕は、エステルが言っていたように確かに壊れてなんかなかったと思う。人間だった。ただ、何も持っていない……自分を示すものが何もない人間だった。そんな僕が最初に手にしたのが、君の持ってきた虫だったんだ。おかしな話だけどさ、君が僕にくれたもので、受け取った最初がそれだったから」
 人間であったけれど何も持っていない、持つ意志も無かったヨシュアの腕に、強引に託されたもの。世界はそこから始まった。エステルが走った場所に、今度は世界が広がる。少女を追いかける眼は、少女の周りを中心にさらに、さらに……。
 エステルが放つ光がそうさせているのか、ヨシュアの眼がそう認識しているのか。そのどちらもなんだろう。
「僕に、僕を与えてくれたのは君なんだよ、エステル?」
「ヨシュアの言うことは難しい」
 とても素直な反応だった。
「真っ暗闇でも、真っ白でも、意志がなければ大差ないんだ。そこにいるだけでは自分なんて何処にいるか解らない……迷うこともできず僕は途方に暮れていた」
 真っ暗な場所ではランプが必要で、真っ白な場所では木陰が恋しくなる。そのどちらでも無かったら、存在にどんな意味があるだろうか。
「そんな僕を何もない所から掬いあげ見つけてくれた君に、とても感謝してる」
 腕に、力を込める。言葉では伝わりにくいことも、確かにあるだろう。想いの温度。この熱は偽りようもなくヨシュアの内側から発するものだ。
「お日様みたいだと君を想ってきた。でも、それだけじゃ足りないんだ。それじゃ、遠すぎる」
「遠い?」
 エステルが聞き返す。
「照らしてくれるとか、見上げるような存在じゃなく、もっと近くに。それに、本当にお日様だったら大変だ」
 くす、とヨシュアが目元を和らげる。ヨシュアが腕の力を抜いて、胸に顔を押しつけられていたエステルはようやく解放された。ヨシュアの香りが、自分からも感じる不思議と、安堵。
「太陽だったら、こんな風に触れあえないや」
 エステルの頬にヨシュアの手が添えられる。ぴたりと、視線が交差した。琥珀の眼と、紅い眼が互いの中に鏡のように映った。引き寄せられるように、エステルはつま先に力を加え、踵を上げる。本当に触れるだけのキスだった。
 今度はヨシュアがエステルの静けさに違和感を覚える番だった。
「……ヨシュア。聞いてくれる? あたしのお日様のおはなし」
 エステルに浮かび上がったのは、普段の彼女の印象からは遠い自嘲めいた笑顔だった。『エステルらしい』という言葉はとても便利で、親しみを持って使われることが殆どだ。だからヨシュアは普段、気に留めない。しかし今から明かされることは、きっと多くの人が言う『エステルらしさ』から外れたものだろう。だから、こんなにも腕の中にいる存在が不安定なのだ。
 エステルがひた隠ししてきた、美しいもの。……もしかしたら、醜いもの?
 ヨシュアには、どちらでも良かった。





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