「お母さんはあたしのお日様だった。あたしの中に、お母さんはいる……いるのに、あたしは何となく気づいたの。いつでも照らしてくれる……なのにね、ふと冷たいんだ」
「冷たい?」
 意外な言葉だった。真意が読めず、ヨシュアはエステルの言葉を待つ。
「……お母さんが死んだ日のこと、ヨシュアに話したことあるよね?」
「ああ」
 それは、カシウスが乗る飛行船が行方知らずになったと知らされた翌日のこと。結果的にはもちろんカシウスは無事だったが、2人が準遊撃士としてリベールを駆け回るきかっけになった。その出発の朝に、エステルはヨシュアに初めて自分の母レナとの別れを話したのだ。
「あたしはお母さんに抱きしめられて瓦礫の中を助かった。お母さんにギュッとされながら気を失ってたのは、ぼんやり覚えてる。すごく温かくて幸せだった、その時は」
「…………」
「眼を開けたら途端に寒くなってね、お母さんとあたし、並んで寝かされてたんだけど…… あの寒さは今でもはっきり覚えてる。ああ、外に出ちゃったんだって」
「外に?」
 ヨシュアは手をエステルの肩に伸ばし、表情をまじまじ見つめた。エステルは相変わらず静かな光を目に宿らせている。まるで嵐の前のような静けさではなく、ずっと続くかと錯覚しそうな夜のざわめきのようだ。そこに確かに存在するのに、胸が落ち着かない。
「あの時ね、あたしはお母さんのお腹の中にいたの。それで、もう一度生まれたんだって思った。あたしの手も、服も真っ赤になっていて……お母さんは不思議なぐらい、綺麗だった……」
 声が震えた。ヨシュアから視線を僅かに外し、足下を見つめようとする。ヨシュアはエステルの肩へ置いた手に、やや力をこめた。ここで反らしてはきっと意味がない。本能的な行動だった。
「お母さんの中から外に出て、寒くて……もう、この世界にはお母さんはいなくて。お日様……お母さんは、そんな存在だった。絶対にあたしには必要で大切な人だった。父さんにとっても、きっと」
 まだ、視線は宙をさまよっていた。
 レナの死は君のせいじゃない、という言葉の無意味さをヨシュア自身がよく知っている。エステルも懺悔をしている訳ではないのだろう。ただ、自らの奥底にあるものに無理矢理手をつっこみ、取りだそうとしているだけ。きっかけを与えたのはヨシュアだ。元より最後まで受け止めるつもりだった。
「お日様がなければ、人間は生きていけない…… だから、お母さんの所には戻れなくても、もがいて、足掻いて。あたし、太陽にしがみついてたの。一緒になりたくて。またお母さんのお腹に入りたかったのかもしれない」
 ヨシュアの手をやんわり拒絶するように、エステルは自分を抱きしめた。肩から小刻みに震動が伝わってくる。視線はもう、ヨシュアではなく地を見つめていた。エステルの先には、在りし日の光景が広がっているのだろうか。幼いエステルとレナ。切り離されてしまった娘と母の姿が。
「お日様になれる訳ない。太陽に、触れられる訳ないのに……」
 いつも誰かの為に走り回っていた少女。ヨシュアの前でころころ表情を変え、じっとしていることが苦痛なんだというように元気に明るく。視界の端でエステルの栗色の髪がゆっくり舞った。顔を下げるとエステルはその場に膝をついていた。
「だから閉じこめたんだ。昔、父さんに見せてもらった琥珀の中にいた蝶みたいに。 ……ううん、心の中で、お母さんがずっとお母さんのままなように。いつでも触れられるようにね、凍らせたの」
「それは、悪いことじゃない……僕の中でもカリン姉さんやレーヴェはずっとい続けるんだから」
 自然なことでもあるだろう。死んで、心に刻まれる。記憶は新たに増えることはない。色あせることはあっても、変わることはないのだ。
 そして、新たに刻まれないからこそ必死になって思い出を守ろうとする。
「エステルは……それがつらいの?」
「ヨシュアはあたしのこと、お日様みたいだって言ってくれたことあるよね。他の人にも言われたことあった。その度に、あたしには違和感があったの。 ……それは多分、太陽にしがみついてる甘ったれた自分だから」
「変わりたいの、エステルは?」
 ヨシュアの言葉にエステルはゆるゆると顔を上げる。頬が濡れていた。月明かりに照らされ、光をうっすら反射させて艶めいた雰囲気さえ醸し出していた。こんな時にまで、流れる瞬間を見せようとしないエステルにヨシュアは思わず歯を食いしばる。以前なら、これはエステルの強さだと思ったのだろうか。
 これを弱さと、今のヨシュアは肯定した。
 だからこんなにも抱きしめなければいけないと焦燥が溢れてくるのだ。
「とっく変わってるんだよ、エステル。昔と今で、君は変わった。お母さんを太陽と想い、無くては生きていけない……不可欠と言っても君は生きている。だから、しがみついていたとしても、君は君で、この世界に生きていて、僕は君に見つけてもらって……たくさん、本当にたくさんのものを、僕にくれたんだ。ありがとう……」
 エステルの涙が伝染したのかもしれない。語尾が濡れたことにヨシュアは内心苦笑しつつ、自らも腰を落としエステルの前に膝をついた。
「……ヨシュアって、結構泣き虫」
「そうだよ、そういうことを思い出させてくれたのも君。それに、エステルこそ泣いてるじゃないか。だからだよ」
「だからって、ヘン」
 お互い笑おうとしたのは気配で分かったが、エステルの方が失敗した。絶え間なく、押し込めていたものが胸を圧迫する。震えるエステルの右手に、ヨシュアは両手を重ねた。
「お母さんのいない世界は嫌? お母さんに守られた世界に戻りたい? なら、僕はエステルをその太陽から奪うよ。ずっと諦めない。太陽の炎に手を焼かれたとしても、君というたった1人の弱い人間を僕の隣まで、引きずり降ろして……」
 乱暴な表現だ、と言いながらヨシュアは思う。しかし緩めてはいけない。エステルと生きると決めたのだ。
「――――お母さんみたいな強い人間になるって決めたのに。お母さんに命を貰ったのに……ごめんなさい」
 唐突にエステルは呟いた。明らかな懺悔の声。
「こんなに弱くて……守ってもらったのに弱いままで。ごめんなさい、お母さん。ごめん、ごめんね、だからね」
 生きていくのに必要なもの。
 太陽の焦がれるような熱さでも、氷の中に閉じこめられた光でも無く。
「僕が、与える」
 生きているという熱を。ただ1人を求める想いを。
 エステルの言葉を断ち切るように唇を重ねた。エステルの腕は応えるようにヨシュアの肩にまわされる。ゆっくり、エステルの体を横たえるように背中を片手で支える。もう一方はエステルの顔を支え、尚も酸素を求めあい、奪いあうようなキスは絶え間無く続いた。
「君のお母さんの代わりじゃない。僕だけが与えられるものが、あるから」
 きっと、なんて言わない。空の女神、そして太陽にも譲るものか。
 存在を確かめるように背中から首すじに指先を這わすと、切なげにエステルが息を漏らした。
 腕の中で体を小さくさせながらヨシュアを見つめる娘は今、世界で1番脆い存在なのかもしれない。
 ヨシュアの光にエステルが気づいたように、エステルの影にヨシュアが気づいた。たったそれだけのことだった。だけど……。
永遠に続く夜の闇に怯えるのではない。朝が二度と訪れないのではないかと泣きじゃくるエステルを離すものかと誓った。
 それは永遠に対してではない。今、この瞬間への誓い。





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