2階から下りて来る気配。カシウスは活字を追う目を停止させた。
「おはよう、父さん」
 1番の早起きはカシウス、次にヨシュアがいつも通りの時間に起きる。それがブライト家にとって団欒の朝だった。
「おはよっ、父さん!」
 カシウスが新聞から顔を上げた。いつもならあと2時間後に起きてくるのが常なのだが、エステルが身支度をした状態で下りてきたことに多少の驚きを見せたのだった。それが分かったのか、「しっつれーな反応ね〜」とエステルはカシウスをじとっと睨む。
「いやいや、2人ともおはよう」
 苦笑しつつカシウスは答え、エステルとヨシュア、交互に顔を見る。何かあったのは分かるが深入りするほど野暮ではない。というより、自ら立ち入っても切なさと寂寥の混ざった墓穴を掘るだけというべきか。伝えるべきことは2人から話してくるだろう。子ども達のことを、その点で信じているカシウスである。
 ヨシュアがエステルにコーヒーを準備する。入れる角砂糖の数は、いつの間にか3つから1つに減った。それがいつからかカシウスは知らないが、ヨシュアは知っているのだろう。
 つまり、そういうことなのだ。これから起きる……始まることは。
「さーて、コーヒー飲んだらまず洗濯しよっと。今日は快晴ね」
 エステルの声は弾んでいる。カシウスはそんなエステルからヨシュアにちらりと移すと、柔らかな笑みがそこにあった。
(見つけたんだな)
 漠然とカシウスは心で呟く。
「……ヨシュア、俺に砂糖はいらんのだが……」
「……あっ!」  ヨシュアもどこか浮ついている。この子ども達は対照的だが、分かりやすいところが似ているのだ。共に暮らしてきた時間がそうさせるのかもしれない。
 そんな点に今さら安堵を覚えたことに、カシウスは苦笑した。


 エステルが豪快な飲みっぷりを披露してから洗濯物に取りかかりに行くと、部屋にはヨシュアとカシウスだけになった。きっとすぐにでも飛び出したいのであろうエステルのために、ミルクを多めにしてすぐに飲めるよう考慮したヨシュアの狙い通りであった。
「……父さん」
「なんだ?」
 リベールの異変の後、2人して旅立つと言い出した時とはまた違う面もちだった。カシウスは新聞をゆっくり閉じ、正面のテーブルに座ったヨシュアと顔を向き合う。
「先日の続きじゃなく、改めて。エステルと婚約したいんだ」
「……婚約、か」
「まだお互い修行中の身だし、仕事も充実してるからね」
「したいんだってお前、すでにエステルは了解してるんだろう? あの様子だと」
「えっ……まあ、そうなんだけど。大事なことだから父さんには、あとレンにも伝えとかないといけないだろう?」
「ああ、そうだな。ちょっと意地悪したい娘を持った父の葛藤を演出したかっただけだ」
「はぁ……父さん」
 ヨシュアが深くため息をつく。自分が淹れたコーヒーを一口含み、のどを潤わせた。ヨシュアはずっと変わらずブラックで砂糖なしだ。
「お前、俺が絶対に認めんと言いだしたらどうするつもりだったんだ?」
 最初からそんなことは起こり得ないと互いが知っている。つまり問題はそこじゃない。
「絶対に認めさせるよ」
「いい答えだ」
 挑むような返答にカシウスは笑った。以前のヨシュアなら冗談でも迷ったかもしれない。
「前にも言ったと思うがあまりエステルを甘やかすなよ? すぐ調子に乗って暴走するクセはまだまだ抜けないようだからな」
「でも、父さん」
 そこでヨシュアが晴れやかに切り返す。
「エステルを目一杯甘やかすのが、……甘えさせるのは僕の役目で、そうありたいとも思うんだ。暴走は困るけど、でも、そうありたいんだ」
 ヨシュアの言葉にカシウスは目を瞠った。
「そうだな……お前が、与えてやってくれ。エステルの父親として、改めて頼む。エステルが何も負うことなく、ただ安心していられる場所を与えてやってくれ」
 突然頭を下げるカシウスにヨシュアが驚く番だった。やけに神妙な雰囲気に戸惑ってしまう。これも悪戯っぽい計算の内なのだろうかと勘ぐってしまったことを、直後に後悔した。カシウスの顔に浮かんでいるのは苦い痛みを伴う微笑だった。
「ヨシュア、知ってるか? お前がおそらく思い沈んでいた事柄の原因。それに、エステルが最初に背負ったものを」
 答えは目の前に刻まれていた。
「俺だ。あいつが最初に背負ったのは俺なんだ。エステルはな、父の自惚れなどではなく、俺を支えるためにまず、ああなんだ」
 ああなんだ、という言葉はきっと周囲が示す「エステルらしさ」なのかもしれない。もちろん、天性の気質も持ち合わせているのだろう。ヨシュアが出会った頃のエステルは天真爛漫という言葉がぴったりの少女だった。
「俺を支えるためにあいつは笑い続けた。支え続けた。それが自然になったのはいつからか分からんがな。俺ももちろん、エステルを支えているつもりだ。俺たち親子は良し悪し関係なく、レナを失ってからそうやって生きてきたんだ。 ……それこそ、生きるためにな」
「当たり前じゃないの?」
 洗濯する服をかごにごっそり詰め込んで、エステルが戻ってきた。床に「よいしょ」とかごを下ろし、手をぱんぱんと払う。そして、エステルの紅い眼と、カシウスの紅い眼がぶつかった。外すことを許さない目の力は、この親子特有のものだとヨシュアは思う。
「あたしも傷ついたけど、父さんの方がずっと……傷ついたのかもしれない。聞かせて? 昨日ヨシュアに言われたの。お母さんがいなきゃ生きていけないあたしが今も生きてるのは、あたしが変わったからだって。父さんも変わったの? 変われたの?」
 堪えるような響きが室内に停滞した。言葉よりもエステルの瞳は雄弁だった。
「父さんを変えてくれたのはお前だ、エステル。お前がいたから俺は痛みに耐えられた。人は生きているだけで影響しあうんだ。そしてそれが俺の娘なら、レナが俺に遺してくれた宝なら尚更だ。簡単な話だろう?」
「…………ね、父さん。あたし、父さんといっぱい笑い合いたいんだ。楽しい時間をいっぱい作りたい。それでね、時々泣きたいことがあったらちゃんと泣くよ」
 エステルはヨシュアに視線を移してはにかんで笑った。
「ヨシュアのところで泣くから。つらいってことも、ちゃんと話す。だから大丈夫だよ、お父さん」

 いつの間にか、止まっていたものが
 音を立てて新たに刻み始める。

「大丈夫だよ……」
 エステルは椅子に座った父を背中から抱きしめた。カシウスは、回された腕に手を添える。
「おめでとう、エステル。ありがとう、ヨシュア」
「……そろそろレンが起きる頃だね。レンにもちゃんと報告しないと後で拗ねるよ」
「とっくに気づいてたくせに、人が悪いわ。ヨシュアもカシウスも」
 階段をゆっくり下りてきたレンに、エステルは招くように微笑みかける。腕はカシウスを抱きしめたままだった。ヨシュア、そしてレンとも、もちろんレナとも違う父への想い。
(おかしいかな、あたし、父さんをずっと……)
 思いかけて、エステルは首を軽く横に振った。それはエステルの役目では無い。永遠の空席……カシウスはそれを受け入れるだろう。だから、エステルは違う形で。――――そう、守りたいのだ。
「あのね、レンにも……聞いてほしいの」
 これから始まる、時間の話を。


「父さんとレン、おめでとうって言ってくれたね」
「そうだね」
 エステルとヨシュアは並んでロレントまでの短い道のりを歩いていた。朝食は和やかに終わり、2人で並んで洗濯物を庭いっぱいに干した後、エステルはヨシュアに連れられてロレントに向かっている。
 レンも付いていこうと一瞬素振りを見せたが、「いいわ、行ってらっしゃい」と聞き分けの良い大人びた表情で2人を見送った。レンには自分からも話した方がいいのかもしれないとヨシュアは内心思っている。少しだけ、申し訳ない気持ちがあるのだ。カシウスに対してとは違う、複雑なものがそこには在る。エステルはきっと気づいていないだろう。しかし今は、問題にすべき時ではない。それが、ヨシュアとレンの共通認識だ。
 カシウスとエステルには存在しない、暗黙の了解。
「見せたいものって何?」
「前の仕事を抜けた理由だよ」
 ヨシュアが案内したのはお馴染みエルガー武器商店だった。
 元気な挨拶と共に店内に入ると、エルガーが待ちかねたように笑顔で出迎えた。ステラもそわそわした様子でその隣に立っている。
「すみません、突然の頼みをこんな早く聞いてもらえるなんて」
「何言ってるんだ、当たり前だろう。ほら、届いてるぞ」
 エルガーがヨシュアに掌サイズの紫紺色の箱を渡した。見てすぐ、それがそれなりの値がはるものであること、そして何を保管する為にあるのかエステルには分かった。自然と胸に手を当てる。予感で胸がトクトクと疼き始めた。
 噛みしめるように「ありがとう」と一礼してから、ヨシュアは振り返り様子を見つめていたエステルに手を差し伸べる。導かれるように、エステルはその掌に自らの左手を重ねた。僅かに汗ばんだヨシュアの掌の感触。
「僕から君に……贈りたいもの。そして、共有したいと願うものを、受け取ってもらえるかい?」
 薬指に、かつてエステルが無邪気に妖精のようだとはしゃいだ光が。シンプルな細工を施されたプラチナと、翠耀石の結晶が見る者を惹きつける指輪だった。
「あの仕事の時に残って、親方に頼んでいただいたんだ。その……婚約指輪としてはあまり使われない石なんだけど、これにしたかったんだ。君と一緒に生きてきた場所で採れた、君と生きていきたい……世界の色だから」
 森の中を駆け回る少女から、大きな虫を渡された日、何も持たない少年の世界に色が広がった。あれから時は流れ、ヨシュアは沢山のものを見て、手にしてきた。
 あの虫は空へ飛んでいった。太陽はいつまでも少年と少女を照らし続けた。そして、エステルとヨシュアが走り、歩いてきた軌跡は尚この大地に在る。
 踏みしめる場所があるから、空を見上げ永遠を想うのかもしれない。偉大な、不変なものへ身の焦がれるような羨望を持つことがあっても、今のヨシュアに躊躇いはない。
 ヨシュアの手を包むように、エステルは両手を重ねた。この温もりの中に、何ものにもかえられない価値があると信じられる、その答え。
「こんな気持ち、初めて」


 世界は続いていくのではなく 今、この瞬間にも……。





BACK