異国にいるんだな、と改めてエステルは空を見上げながら思う。
 カルバード共和国に足を踏み入れて、初めての夜。 風情がある……とはこういうものかとエステルは視線を下ろし、 周囲を見渡した。渡り廊下にヨシュアと並んで腰をかけ、チリン……と涼やかな鈴の音が空気を揺らす。 街の中にある宿なのだが、ここは切り離されたように静かで、穏やか。
 客寄せの女性の服が可愛くて、本当はもう少し安い宿があったのだがエステルの興味津々な目を見てか、ヨシュアから切り出したのだ。
「ここに泊まろうか?」
 もちろん、エステルは喜んで頷いた。
 女性が身に着けていた服は、『浴衣』と呼ぶらしい。 おそるおそる聞いたエステルに、女将はニッコリ「お客様の分も用意しますよ」と微笑んだ。顔にでも書いてあったのかな、と少し恥かしい以上に好奇心が勝った。 今、エステルもヨシュアも女将に手伝ってもらって初めて浴衣を身にまとっている。 見た目は涼しげだったのだが、腰辺りはグルグル巻きで少し動き辛い。
 エステルは白を基調にした花柄、トレードマークでもあるツインテールが今夜は女将の計らいでポニーテールである。 髪を梳き、帯の柔らかな赤に合わせたリボンで結んでくれたのだ。 他人に髪を結ってもらうことが久しぶりのエステルは、少しだけ緊張した。
 ヨシュアは落ち着いた紺の浴衣。浴衣に戸惑っているエステルをよそに、ヨシュアは澄ました顔で着こなしていた。
 いつも通り、に。
 ―――その前に、此処が『温泉宿』であることを中に入ってから知った2人であった。
 『温泉』はリベールにもあったし、エステル達も知っていた。 その、「知っている」には何とも言えない記憶も含まれていて。 初めて、エステルとヨシュアが温泉に入った時のこと。 それは、互いに恥かしさやら居た堪れなさをもたらしたのであった。
 今回は『混浴』では無く『男性』と『女性』に分かれているのをしっかり肉眼で確認。 同じ過ちは繰り返してはいけない。
(あれ?…………ほっとした、のに)
 心の何処かで落胆している。そのことにエステルは驚いた。 あの記憶を塗り替えたい、という心理が働いたのかもしれない、そう自分に言い聞かせようと するが、無理やり手繰り寄せた答えは納得のいくものではなかった。
「エステル?」
 女湯の入り口前で立ち止まっていたエステルに、ヨシュアはやや訝しげに声を掛ける。 傍目にはぼんやりしているように見えたのだろう。
「何でもないっ」
 慌てて答えてから、ヨシュアの琥珀の瞳を窺った。そこにはいつも通りの穏やかで落ち着いた光が宿っていて。
 何故だろう。無性に、腹が立ったのだ。エステル自身にも解からない、『何故』という問いかけ。
(あぁ、おかしいな。……スッキリしない)
 その靄に覆われた問いかけは、温泉を堪能した後もこうして続いていた。
 並んで座ると湯上りのシャンプーの香りが鮮明になる。女湯と違う香りのシャンプーなんだ、とエステルは思った。鼓動が、微かに高まる。
「……あ」
 不意に、隣のヨシュアが声をあげる。ふっと、闇に溶けるような声を。 それを聞き逃すエステルでは無い。
「どうした……の?」
 問いかけた時、視界を通り過ぎた白い光にエステルは目を丸くする。
「エステル、ホタ…」
「アキドアホタル!!!」
 ヨシュアの言葉より、エステルの方が早かった。しかも、正式名称である。 かつてから虫と魚に関する知識だけはヨシュアに勝ったエステルらしい。
 いつの間にか、夜は更に深まっていて。髪をゆったりと揺らす風が心地よい。 そして、異国の空に舞う、『カルバードでしかお目にかかれない』(エステル強調) アキドアホタルの光。 その光が、ゆらりと誘われるようにヨシュアの人差し指で停止した。 ヨシュアは何も言わず、それを受け入れじっと見つめる。エステルは嬉々とした表情で、 「うわっ、ヨシュア、綺麗だね!」 そう言ってヨシュアの顔を覗きこむ。自分で動いておいて、思ったより顔が近づきすぎて エステルはパッと顔を直後に引っ込めた。
(あ、あからさまだったかしら……)
 僅かに不安が過ぎったが、ヨシュアはやはり静かな眼でホタルに見入っている。 確かに、綺麗だけれど。
(ちょっとは、隣にあたしがいるんだからさ……)
 初めて浴衣を着て見せあった時、「よく似合ってるよ」とは言ってくれた。 嬉しいのだが、なんとも社交辞令じみた言葉。もう一言、もうひと捻りあっていいのではないか。
「…………儚い、光だね」
「え」
 ヨシュアから零れた言葉。それを受けて、エステルは首を傾げる。
「たった数日しか……生きれないんだ」
「そうかな、あたし達の時間で考えるからそう思っちゃうのよ。 ホタルには、ホタルの時間の流れがあるんじゃないかな……それに、ね」
 ゆっくり立ち上がり、エステルは宙へ向かって手を伸ばす。指先にホタルが止まらないかと 期待したのだが、上手くいかない。
(ヨシュアめ、虫からもモテるとは……!)
 なんて思ったのは内緒である。それに、エステルは虫を獲るのが大好きだったのだ。 探して、見つけるのが楽しいのだ。ヨシュアにしてみれば 「僕もモテたいと思わないよ」と反論するであろう思考が展開される。
 気を取り直して、すっと息を吸い込む。リベールとは、やはり違う空気を。
「こんな小さな体でも、暗闇の中でホタルの光は見失わない。夜空の中を飛んでるホタル って、光の路を描いてるみたいじゃない?」
「……路を、描く……か。エステルらしいな」
 ふっと微笑み、ヨシュアも立ち上がる。人差し指に止まっていたホタルもふわり、と。 2人の間にエステルの言う「路」を描いて飛んでいった。
「……やっと、正面から見てくれた気がするんですケド」
 少しだけ不貞腐れて言うエステルに、今度はヨシュアは困ったように笑った。
「ごめん。わざと」
「なんでよ!?」
 反射的に言い返すエステルに、ヨシュアは最初はおそるおそる、徐々に明確に。 エステルの1つに結った髪に触れ。そのまま身体をゆっくり引きよせた。
「ごめん。上手く言えないけど、緊張して」
「……緊張して?」
 内心では心臓が高鳴るどころではない。しかし、エステルは声を潜めて次の言葉を待った。
「君を好きになるのは、何度目なんだろう」
 ヨシュアが栗色の髪に顔を埋める。言葉が見つからない。それが照れ隠しだと互いに解るから。
 先ほどの靄の奥にあった答えも、いつの間にかどうでも良くなっていて。
 ヨシュアの胸の中に顔を沿わせながら、視界の端でホタルが、ひとつ。闇に、路を描いていた。





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