目の前に現れたふわり、ふわりと揺れる雪のようなそれの方へ、エステルは慎重に手を伸ばす。すると、やはり手は宙を切り微かなため息が出た。
「何やってるのさ」
 呆れた口調で、後ろから声をかけたのは義弟のヨシュアだ。確認するまでもなく分かっていたことなので、エステルは再び先ほどのため息が色を得て大気に浮かぶ様子を注視した。
「ん、なんとなく」
 布団から出るのに一大決心が必要な季節がやってきた。日曜学校へ向かう朝は、空気が澄んで気持ちいい以上に寒さで耳が痛い。きっと、真っ赤になっているだろう。
「そういえば」
 エステルが突然振り返ると、ヨシュアは訝しげに「……なに?」と注がれる視線に居心地悪そうな素振りを見せた。
「ヨシュアってばへーぜんとしてるけど、寒くないの?」
「別に」
 答えになっていない返事に不満げな顔を浮かべたものの、エステルはすぐ気を取り直してロレントまでの街道を再び歩きだす。注意が逸れたことに何となく安堵して、ヨシュアもエステルの後を歩く。
 整然と同じ距離を保ったまま通り過ぎる、日曜学校までの道中。それは、近いとも遠いとも言いがたい距離だった。


 日曜学校で興味のある話題以外をたっぷり睡眠時間に変換して、教区長からありがたい宿題をたんまり貰ったエステルのテンションは行きに比べると低かった。
 昼を過ぎると更に気温が下がるでしょう、とたしか教区長が話していたことをヨシュアは思い出していた。
 しょんぼりする気持ちをやはり持ち前の切り替えの早さで克服して、エステルは手提げカバンの中に歴史の勉強で習ったらしい(もちろんエステルの記憶には無い)プリントを詰め込んだ。そこで、ふっと思い出したように表情が明るくなる。
「……エステル、そろそろ帰るよ」
 まだ席に着いたままカバンに手を突っ込んでゴソゴソしているエステルに痺れを切らし、ヨシュアが声をかけるとエステルは二カッと満面の笑みで手を義弟の方に広げた。
「じゃーん!」
 ヨシュアの前に現れたのはエステルの手のひら……肌色でなく、鮮やかな桃色。
「おニュー! 今日から手袋デビュー!」
「なにそれ。早く帰るよ」
 ヨシュアにしてみれば、手袋ごときでテンションが上がる心理が分からない。そういえば、ブライト家に来てまだ療養していた頃も、唐突に虫を渡されたりなどしてやはり意味が分からなかった。後々、それらの行動が意味することを掴みはしたのだが。
「あったかいよ」
 不意打ちだった。なんてことないといった所作で、エステルは桃色の両手を伸ばし、ヨシュアの頬と頬を挟む。口は開いてもとっさに言葉が出ず、白い靄と化した息が二人の間を泳いだ。
「……つけたばかりで、まだ冷たいよ」
 出てきたのはこんな言葉だった。顔を緩く横に振り、やんわり姉と言い張る少女の手を外す。
「だんだんあったかくなるよ?」
「あっそう」
 ヨシュアはそそくさとカバンを持ち直し、早足で外に出た。「あ、待って〜!」と慌てるエステルの声が聞こえる。
 エステルが前に立つまでに、何とかしなければ。ヨシュアはまるで目眩のような世界の揺れを、背筋の芯から冷やすような風に当たることで押し込めようとした。ゆるやかに胸が疼く。
 沁みいるような、桃色の温度……。


 いつもと逆だった。ヨシュアが先を歩いて、エステルが不思議そうにその後ろを歩く。ロレントの街の中を、ずんずん歩く二人。
 エステルには分からなかった。最初はヨシュアが怒ったのかと思ったのだが、先ほど聞いたら戸惑った様子で否定された。ヨシュアは最初会った時、表情が硬く笑顔は滅多に浮かべなくて、今でも大爆笑している姿を見たことがないけれど、言っていることは本当なんだろうな、と思った。因みに大爆笑するヨシュアを見たくてこっそりくすぐり大作戦を決行したことがあるが、全てヨシュアにはかわされてしまった。
「ねーー、ヨシュア〜」
「…………」
「ねー、ねー、ヨシュア!」
「…………」
 怒ってないのに、無視をするらしい。エステルの決断は早かった。助走、そして駆け足……!
「ていや!」
「なにするのさ!?」
 エステルが後方からタックルする気配は騒がしく、鋭いヨシュアならあっさり避けられた筈だ。それをヨシュアは背中で真っ向で食らってから振り返り抗議した。つまり、ヨシュアは自分の弟だということ。家族だということ。エステルはそう解釈する。
 ――つまり、ヨシュアはとても優しいということ。
「……なに、にやけてるのさ……」
「へへへへへへっ。ヨシュア、先々行くんだもん。おねーさんがあっためてあげる」
「誰がお姉さんだよ……体当たりしておいて」
 言葉は不機嫌だが声は柔らかかった。エステルはヨシュアの手をひょいと掴もうとして、そのピリッと走るような冷たさに動作を停止させた。
「つめた! ヨシュアつめた!!」
「そんな騒ぐことない……この気温なんだから」
 自然現象だ、と言うかのように平然と答えるヨシュアに対し、エステルは黙っていない。
「これはゆゆしき事態ね。おねーさんだけぬくぬくして、弟がこんなカッチンコチンなんて」
 誰がカッチンコチンだ、と内心つっこみつつヨシュアは紅い瞳に炎が灯ったようなエステルの勢いにうんざりさと戸惑いを覚えた。
 おもむろにエステルは自分の手袋を外し、ヨシュアが「なんなんだ」と言う間もなく義弟の手に桃色の手袋をつけさせる。エステルが何をやりたいのかは途中で察知したので、不器用なエステルの為にヨシュアが指をするりと手袋にはめたのはヨシュアのささやかな気遣いとさっさと終わってほしいという気持ちの表れだった。
「おねーさんのあげるから、それであったかくしなさい」
 有無を言わせぬ、いわゆる決定事項。ヨシュアが新たに声を発する前に、エステルは満足したのかいつも通り前をどんどん歩いていった。
 先ほどまでエステルが使ってた手袋は、ささやかながら銀糸の可愛らしい花の刺繍が施されており、どう見ても女の子用である。しかも、前を歩く自称姉の手は短い時間手袋を装着していたとはいえ、ヨシュアの目に指先が赤く、少し痛々しい。
 ヨシュアは自分の手を改めて見る。女の子用の愛らしい、桃色の……ほんのり温かい手袋が、そこにあった。大きさがほぼ同じらしいことが少し悔しい。エステルがヨシュアのために手袋を譲ったことが嬉しいより、それもこれも含め、悔しいのだ。
(返そうとしても受け取らないんだろうな……)
 それこそ、ヨシュアにも分かる決定事項。エステルが冷たい手を晒して自分が手袋をしている。そんな、日曜学校の帰り道が少しヨシュアは恥ずかしかった。
 そして恥ずかしいという感情を持つのがとても久しぶりであることに、その時のヨシュアは気づかなかった。



 ブライト家に来てから主にエステルの無鉄砲さや突飛な言動に驚かされ、時に悩まされたヨシュアだが、初めてこの家で過ごす冬の今日、悩みが生まれた。それも、おそらくエステルなりの優しさから生まれた悩みだ。
 現状を打破したい……一番簡単な解決策が浮かんだが、すぐにそれはかき消した。それは、自分から拒絶したものであり今さら頼ることは出来なかった。
「…………おこづかい、こんな時に必要になるなんて……」
 そう、「おこづかい」だ。なんと間抜けで切実な響きか。ブライト家で生活することを了承した当初、カシウスから提案があったのだ。エステルと同じく、お小遣い制度の勧めが。ヨシュアはそこまで世話になれないし、衣食住が足りていれば他は要らないと拒否した。つまり、ヨシュアには娯楽や私用で使うミラが無かったのである。

 その日、カシウスが帰ってくるのはいつものように遅めだった。エステルが寝静まったのを見計らい、ヨシュアはカシウスの部屋をノックした。
「なんだ、まだ起きていたのか」
 ヨシュアはすぐに本題を切り出した。
「アルバイトをしたいんだ」
 ロレントの、ブライト家とも以前から親交が深いらしい武具屋に、たしかそんな内容の張り紙があった筈だ。ロレントは住民の移動が少なく、張り紙はひと月ほど前に貼りだされてからずっとそのままだ。武具はメンテナンスが細かく、そうそう気楽に飛び込む人は少ないだろう。
「……それは別に構わんし、むしろいいことだと思うが……急にどうしたんだ?」
 当然の質問だった。エステルに手袋を返す為に自分の手袋が必要なんだと説明すればいいだけのことなのに。
「その、欲しい本があって」
 何故、ささやかな嘘を増やしてしまったのか、ヨシュアは自分の不可解な行動に微かに苛立った。
 カシウスの紹介もあってか、アルバイトは翌日あっさり決まった。まだ幼さが残るヨシュアに店長のエルガーは戸惑ったものの、カシウスの推薦とヨシュアの礼儀正しさを受けて、簡単な仕事なら……と話はまとまったのであった。
 ブライト家の新しい子どもであるヨシュアはロレントでも有名で、礼儀は正しいけれど人と関わりを極力持たないように見えた。いつもエステルの見守りを傍らで静かにしている少年と捉えていたのだから驚きもあったのかもしれない。

 手袋をエステルに睨まれない限りはつけないで、エステルが遊ぼうよと駄々をこねるのを回避して……そんなヨシュアのアルバイト生活が始まった。 ――――そして……。
「よく頑張ってくれたね。これが初給料だ」
 満面の笑みを浮かべながら、エルガーから渡された封筒は思っていたより厚みがあった。ヨシュアはいいのだろうかとエルガーを見返す。
「書類にあったじゃないか。今日、ロレントに来て最初の、だろう? ちょっとした気持ちさ」
「……すいません」
 アルバイトの形式だけの契約書に、確かに記入した自分の情報のひとつ。それを見て気を利かせてくれたということか。ヨシュアは納得と申し訳なさを覚えた。
「エステルも悪気は無いがよく暴走するからね。いい物が見つかるといいね」
「え」
「エステルがね、ヨシュアが遊んでくれないって拗ねてるもんだからね。手袋を押しつけたのを怒ってるのかと少し気にしてたよ。あれでナイーブなところもあるんだ」
「……ありがとうございます」
 お見通しだったらしい。ぺこりとお辞儀して、ヨシュアは早速雑貨店に向かった。
 店内では防寒アイテムが鮮やかな色を主張しながら並んでいた。とにかく、寒さをある程度防げたら良いのだ。それでエステルは納得するだろう。早く買わないとエステルが冷たい手をさらして過ごす時間が増える。
「……ん」
 ぱっと、目に入ったのはオレンジ色のシンプルな手袋。喧しさを感じさせない、柔らかな色合いだった。縁には白で紋様のような刺繍がささやかに施されている。
 同時に脳裏に浮かんだもの。漠然と浮かんだそれを自覚して、ヨシュアの体感温度が一、二度上がった。
「お、ヨシュア君、さがしものは……あれっ?」
 気さくに声をかけた店員の男性は不審に思ったかもしれない。ヨシュアは突然、店の外に向かって駆けだした。なんて衝動的な……エステルじゃあるまいし、とヨシュアは内心でつぶやく。
 頬にそっと触れたものに気づき、ヨシュアは顔を上げた。まばらにだが、薄暗い空から粉雪が舞っていた。明日はもっと、冷えるかもしれない。
 エステルの、赤く荒れた手を思い浮かべる。ぜんぜん平気、と心の中の少女は快活に笑った。それがとてもヨシュアには悔しい。
(もう、僕はたくさん、貰いすぎたから)
 気を取り直して、再び店内に戻る。妙に気恥ずかしくて頬を掠めた雪の跡に触れてみた。それはもう、ただの水だったけれど。
「喜ぶ、かな」
 何もないけれど、何もしないよりは……。
 レジでミラを渡す手は少し、ぎこちない。けれど、ラッピングされた手袋を見ると、ヨシュアはほんの少しだけ誇らしかった。




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