ついに、雪が本格的に降り出した。
 エステルは薄暗い空を見上げながら、棒術具を岩に掛け立てた。そして、全身の力を抜いて自分ももたれる。
 雪が降り積もる中での戦闘は何度か経験してはいるが、疲労度は断然普段より高い。ふぅ……とついた息も、寒々と真っ白だった。
 エレボニア帝国の北方を現在の拠点にしているエステルとヨシュアは、今日も遊撃士の仕事をこなしていた。年末年始は遊撃士の仕事には関係ない。助けを求める人の為に、今日も一日中駆け回っているのだが……。
「さっすがに、寒いわね」
 本日最後の仕事は、父親が遠方で働いている家族からだった。新年を迎える時だけ帰ってくる父親からの連絡が途絶えたので、街道に行って安否を確かめてほしい、とのこと。人手が足りないのでヨシュアと分担して走り回っていたのだが、案の定車が魔物に襲われていた。大した魔物ではなかったが、その後ヨシュアと合流時間までどうしようかと考えていたら、この雪だ。
「寒いよー……」
 声を出して紛らわそうとしてみたら、喉が冷気で少し痛かった。人間の気配がしない、どんどん白に覆われる光景。口を開くのを止め、エステルはそれらに見入った。


 ざくざくと音を立てながらも、足が雪に奪われることはない。ヨシュアは一人駆けていた。どんな状況でも対処できるよう訓練された結社時代の訓練は、苦い記憶だけでは無い。誰かを、エステルを守る時に、役立つこともある。
 そう思えるようになってきたのは、ここ最近の話だ。
 合流地点まで、あと少し。優れた視力の眼が、ごつごつした大岩の下で座り込んでいるエステルを捉えた。
「エステル……! 大丈夫かい」
 栗毛にくっついた雪をそっと払うと、エステルは「うん」と小声で答えた。どうやら相当参っているらしい。
「走るよ」
 棒術具を持たせ、エステルを抱きかかえヨシュアは街まで急いだ。


 報告は手短に終わらせ、遊撃士協会に手配してもらっているホテルの一室に戻った。部屋はあらかじめ暖められていたが、それでも体が小刻みに震えている。
「……熱が出そうだね……横になる?」
「うん」
 短い返事で、エステルは頷いた。


 窓から見える外の風景は、自分たちが異国にいることを改めて感じさせる。大雪の中でもライトアップされ、街の中は活気がある。皆、この気候に慣れているのだ。ぼんやりする頭で、たくましいなぁとエステルは思う。
 部屋は暖色系で統一された家具が揃った、比較的良い部屋だった。暖炉がパチパチ……と静かに音を立てている。
 水の入ったコップをサイドテーブルに置いて、ヨシュアはポーチの中から薬はないか探し始める。二人とも鍛えているだけあって、体調を崩すことはそうない。しかし、最低限の備えとしてヨシュアがいつも携帯しているのであった。
「……ごめんね。仕事、どうだった?」
「ちゃんと家族で年を越せそうだって喜んでくれてたよ。大丈夫」
「うん」
 布団を引き寄せながら、エステルの表情に安堵が浮かんだ。
「それと、お祭り行こうって言ってたのに、ごめんね」
 もうすぐこの地域で雪にちなんだお祭りがあるということで、遊撃士協会は警備に動員されることになっていた。そのついでに折角だから祭りを堪能する予定だったのだ。
 なんせ、恋人になって初めて二人だけで過ごす新年の幕開けになるのだ。それぞれが胸に抱く特別な盛り上がりがあり、楽しみにしていた訳だが……。
「体調が戻るまでは、休んでくださいって話だよ。人数が足りなければ僕だけ警備に行かなきゃいけないかもしれないけど……なるべく早く帰れるようにするから」
「いいよ、大変なんでしょ」
 顎の下まで布団を寄せ、エステルはぽそっと答えた。傍らに座るヨシュアの声は優しくて、だからこそ情けなくなる。頭がぐらぐらして、久しぶりに本格的な風邪。遊撃士として活動しだしてから初めてだった。
「一人に出来ないでしょ……ん?」
 通信機が鳴り、ヨシュアが立ち上がる。少しだけ現状に泣きたくなっていたエステルはほっとした。聞こえてくる会話の様子だと、ギルドかららしい。エステルの体調と、祭りの警備について話している。
「はい……はい……。その、旅立ってから初めてここまで体調を崩してますし、一人には」
「あたしは大丈夫っ」
 聞こえるように、ベッドの上から無理に声をあげたらますます頭痛が酷くなった。これぞ、自業自得。
「…………すいません、はい、そういうことでお願いします」
 がチャンと通信機を切ったヨシュアが振り返ると、布団を被りながら頭をしんどそうに抱えるエステルの姿があった。そんなに無理しなくても、とヨシュアは思わず苦笑する。
「僕も休ませてもらうことにしたから」
「どうしてっ!?」
「どうして一人になりたがるの」
 ヨシュアの穏やかな反論にエステルの言葉が詰まる。
 全く逆だな、とヨシュアは内心また苦笑した。かつてはヨシュアの方が何かと一人になりたがり、エステルと距離を置こうとして……実際離れ、傷つけたことがあった。
 共にいられるのに離れなければいけない痛みは、永遠に出逢えない痛みを知るからこそ焦燥を伴う。
 そして、かつてのヨシュアと今のエステルの言動は、きっと全く別のところから生まれるものなのだろう。
「一緒にいさせてほしい」
 互いを守って生きていこうという誓いは今も二人を繋いでいる。それは、人生の、人間として生きていく為の指針なのかもしれない。
 ――――それとも違う、これはきっとまた別のところからくる感情。
 いつの間にか、布団を顔まで被り込んでいるエステルに、耳は傾けてくれているだろうから言葉をさらにかける。
「泣いてもいいんだよ」
「泣かないもん」
 すかさず返ってきた声は、中身は勝ち気だが響きは震えていた。
「ここにいるから」
 備え付けの新聞を手にとって、改めてベッドの傍に椅子を寄せるとヨシュアは腰を落ち着けた。暖炉の音と、ヨシュアが新聞をめくる音。そして、息づかいだけが部屋を満たし、いつの間にかエステルは眠りに落ちていった。


 幼少の頃は、風邪を引いたら母……レナが温かいスープを作ってくれた。作り方は秘密で、元気になったら教えてあげる、とレナは笑っていた。結局快復したらスープのレシピより外を駆け回る方に夢中になって、聞かず終いになった。
(バカなこと、しちゃった)
 胸に残る、普段は忘れているけれど突然湧いてくるもの。
 レナがいなくなってからも、体調を崩すことはあった。エルガー夫妻に面倒を看てもらったり、時々家に来てもらったり。
(だから、ぜんぜん淋しくなかった)

 だけど、一つだけエステルには分かったことがある。
 雪に覆われた真っ白な世界も、闇に覆われた自分しかいない部屋も、同じなのだ。大して変わりない、自分の呼吸しか聞こえない世界……。


 ゆっくり、眼を開く。カーテンから覗く外はもう真っ暗だった。どのぐらい寝ていたのかエステルにも分からない。
「……ん」
 ふんわりと漂ってきたのは、芯から温まるような匂いだった。ヨシュアが「起きたかい?」と微笑む。
「そろそろかなと思ってね、厨房借りて作ってきたよ。栄養あるもの食べて、早く治さないとね」
「うん」
 ヨシュアが奥のテーブルからエステルの元までクリーム色のスープが入った器とスプーンを運ぶと、エステルはゆっくり体を起こしそれを受け取った。
「熱いから気をつけてね」
「……美味しそう」
 実際、ヨシュアはエステルより料理が上手い。いただきます、と言ってからエステルはゆっくりスプーンですくい一口。じんわり野菜の味が染み込んだスープの味が広がった。
「違う味……。ねえ、これの作り方今度教えてね」
「ありふれた作り方だよ。どうして?」
 突然の提案にヨシュアが首を傾げる。
「いいから、元気になったらいつか教えて」
 エステルの真剣さにヨシュアはすっかり乾いたエステルの栗毛をゆっくり撫でた。エステルが誰と違う味と言ったのか、多少心当たりはある。今、この温もりを与えられるのは自分だけだという喜びと決意があった。
 もう、一人になることも一人にすることも耐えられない。
 ふんわり花開くような笑顔のエステルの肩を、ヨシュアはそっと抱き寄せた。



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