風と共に、微かに聞こえてくるメロディーは、もうすぐロレントにたどり着くこと、自分が生きていること。 そして、今一番おもいきりこの腕の中に閉じ込めたい娘との距離が近づいていることを伝えた。
 思い立ったのは、突然では無かった。自分の力がどれ程のものかを確かめたかっただけだ。 いつの間にか与えられた名、『剣聖』という大層なものに値するかどうかを試したかった。 武者修行……とでも呼ぶのだろうか、これは。 軍の中でもメキメキと力をつけ、上司にも目をかけられているとカシウスは自覚していた。 そんな中、あえて長期休暇をもぎ取っての独り旅であった。 軍の大先輩であり直接の上司でもあるモルガンの渋い顔を思い出すと、職場復帰した時の雷を予想してやや、げんなりする。
 今、思うべきはあんな頑固オヤジでは無い。 カシウスが求めるのは、柔らかに耳に届くメロディー……歌声の主、レナである筈だった。


 付き合っているのか、いないのか。 二人の関係は他者から見れば「恋人」と定義するのかもしれないが、 カシウスにとっては複雑な心境がまとわりつく。 カシウスがロレント周辺の街道に出現する魔獣の定期討伐に軍から派遣されたのが約一年前。 正直、カシウスにとっては自分で無くても倒せる程度の魔獣を相手にする為にロレントという田舎に派遣されたのは不本意ではあった。
 しかしその任務が無ければ、カシウスはレナに出逢うことはなかったのだ。カシウスがモルガンに対して最も感謝している件である。
 レナはロレントで一人暮らしをしていて、出逢ったのは居酒屋アーベントであった。 てきぱき注文を受け、仕事をこなす姿を何気なく目撃したのが最初。 次に出逢ったのは街中の花壇の手入れを飾り気無い作業着で、手を泥で汚しながらも熱心にしているところだった。 また、在る日は武器屋のカウンターに立っていたり、はたまた時計台の掃除をしていたり。
 若い娘が居酒屋でウェイトレスをしていることは珍しくない。 しかし、街全体の花壇の世話やあちこちの店の手伝い、 挙句の果てに時計台の掃除までしている……カシウスがレナに持った最初の印象は、 働き者以上によっぽど貧しいのか、という安直なものだった。
 何度かすれ違い、挨拶をする程度には顔見知りになった。 単純な好奇心で、カシウスは街中に設置されたベンチに座るレナを遠目に見つけた時、 声をかけようと思った。名前は街の住人に聞けば一発で知る事が出来た。 レナは派手さは無いが、十分整った容貌をしていて、しかし何処か掴みどころの無さも感じさせる不思議な女性だった。 軍で最も将来を有望視され、実力も認められている。 正直、自惚れていたのだろうとカシウスは思う。 声をかけて、意気投合すれば共に食事でも、と気軽に考えていたのだ。 後ろからゆっくり近づき、聞こえてきた歌声にカシウスは思わず足を止めた。 それは、ロレントに伝わる子守唄なのだろうか…… 穏やかで、何処までも心にスッと入り込む歌声に惹かれるように、今度は迷わずレナの元へ歩く。
「…………レナ、といったか」
「静かに」
 ぴしゃりと歌声は止んだ。カシウスは断固とした意志が伝わる声に、思わずレナの方を覗きこむ。
 ベンチに座るレナの膝元では赤ん坊が安らかな寝息を立てていた。 その時、受けた衝撃は振り返ると笑ってしまう程大きなものだった。 レナ本人に言えば、「そうだったんですか」とくすくす笑い流される程度のものだろうが。
「眠ったばかりです。お話があるなら後で宜しいでしょうか」
「あ、ああ……」
 有無を言わせない迫力が、カシウスを頷かせた。 元より、大した用事など無いのだ。ただ単にあちこちで見かけ、ひたすら働いている娘に好奇心が湧いただけのこと。
「……こ」
「こ?」
 レナがゆっくり首を傾げる。二人とも赤ん坊に気を遣い声は抑えていた。
「こ、子育ては大変なんだな……」
「は?」
 紫の瞳がみるみる大きく瞠る。そして、次に肩を震わせてレナは笑っていた。
「ふふふっ、私はこの子のお世話を頼まれただけです。私の子どもに見えましたか?」
「あ! いや、これは失礼……」
 直接会話をして、初めての笑顔だった。 カシウスは自分の誤解を慌てて謝罪したのだが、 声を抑えるまで気が至らず結局レナの膝ですやすやと眠っていた赤ん坊は起きてしまった。 先ほどまでの静けさは成りを潜め、二人の間には赤ん坊の泣き声が響きわたる。
「もう、寝かせつけるの苦労したんですからね?」
 微かに頬を膨らませ、悪戯っぽく微笑むレナ。 ……その日からだった。自分の勤務の合間に、レナの仕事の邪魔にならない程度に共に過ごすことが増えたのは。
 とにかくレナは、軍人であるカシウスよりもいつ休憩をしているのか分からない程働いていた。 本人曰く、「若い娘が一人で自立するには将来の為にもお金は幾らあっても困らない」との事だった。 ふと、自分の無駄に有り余っている金を彼女に渡そうかと思ったこともあるが、 今の関係……まだ関係と呼ぶ程のものでもないが、 それが崩れ去る様な気がしてカシウスは彼女を見守ることにしたのだった……。


 定期討伐が終わってからも、数日の休みが取れればカシウスはロレントに足を運ぶようになった。 周囲には毎度、あそこの店の料理が美味いやら、 武器屋の手入れが素晴らしいと曖昧に言い訳がましい事を言いつつだ。 流石に、「気になる女性に逢いに行くので連休をくれ」とは言えなかった。 そんな事をしたらリベール軍名物の雷を自ら当たりに行くようなものだ。
「最近、浮足立ってるぞ」
 モルガンに指摘された時は、「そうですか?」と軽く笑い流したのだが、 いつまでこんな日々を続けられるかどうか、カシウスにも解らなかった。
 レナもカシウスに興味を持ち始め、どんな食べ物が好きだとか、任務中に見てきた景色だとか。 ささやかな日常の話を聞くことも増えた頃だ。
 軍で、カシウスに勝てる者が……否、リベール国内でカシウスは強くなり過ぎていることを自覚した。 同じ人間であるのに、カシウスは『剣聖』という生きものとして扱われるようになったのだ。 上司であるモルガンが相変わらずであったのは、カシウスにとって幸いではあった。 しかし、だからこそ厳しいことに変わりはない。
「力を持つ者の業だ……そして、お前の業だと受け取れ」
 という、有難い言葉も頂戴した。諦めろという意味かと憮然としたのだが、 確かに言う通り、これはカシウスに与えられた逃れられない業に違いなかった。
 そんな中、リベールに伝わる守護竜の話をユーディス…… リベール皇子から面白半分の話題として聞いたのだ。 人間を圧倒する力を目にしたかったのかもしれない。 自分がまだまだ強くなれること、世界には更に強い力があることをとにかく体感したかった。
 そして、もしそんな伝説の存在に勝つことが出来れば…… モルガンやユーディスが聞けば呆れるか笑うであろう一大決心をカシウスは固めたのだった。 伝説の守護竜には無謀にも挑むことが出来るのに随分弱気なものだ、と。


 結果は痛み分けというものだった。 カシウスは始めからリベールを守護する竜を狩るつもりで戦った訳でないし、 守護竜……レグナートは静かな眠りに就く前にやってきた無謀な人間に興味を示し、 戯れたといったところか。
「面白い人間もいたものだ」
 直接脳に響く、何処までも深い声は微かに笑いを含んでいた。 恐らく認められたということだろう。
 武者修行の間は少なめの路銀で歩き回り、 伝説を元にレグナートの棲みかを自分で探す所から始まった。ロレントに寄った時、冗談半分で 「人間を凌駕する相手に挑むんだ。もう逢えないかもしれないな」 とカシウスはレナに告げた。返って来た言葉は恐ろしく軽やか、いつもの微笑みが其処にあった。
「それでも行くのですから仕方ない人ですね。行ってらっしゃい」
 本当は、少しでも良いから引きとめて欲しいという期待と甘えがあった。 しかし代わりに与えられたレナの「行ってらっしゃい」という言葉に カシウスのテンションが上がったのは単純としか言いようが無い。


 そして、カシウスは戻って来た。 レグナートとの戦いよりも、 その後の山越えや普段は堪えることの無い魔獣との戦いに体力を徐々に奪われた。 本当にもう逢えないかもしれないと思った瞬間もあった。 今は、ただただロレントの街並みを真っ直ぐ歩く。歌声が聞こえてくる方へ……レナの元へ。


 レナは、初めて声をかけた時と同じベンチに座っていた。 子守唄がロレントの街並みに微かに響き、解けていった。 後ろからで彼女の長い髪が揺れる姿しか見えないが、 もしかしたら今日も赤ん坊の世話の仕事をしているのかもしれないとカシウスは思い、 忍び足でレナに近寄った。驚かしてやりたいという悪戯心が無かったとは言い切れない。
「レ……」
 名前を呼ぼうとする前に、子守唄は途切れた。 何だろう、とカシウスは立ち止まったが次の瞬間、身体が硬直した。 レナの肩は小刻みに揺れ……聴こえて来たのは柔らかな唄声では無く嗚咽だった。 レナの異変にカシウスは駆け寄り、自分の腕で自らの身体を守るように抱きしめ、 身を固まらすレナの両肩に手を伸ばす。 そこでやっとカシウスの存在に気付いたのか、 レナは一瞬だけ驚きの表情を見せるが気丈に手で目元を拭い、微笑んだ。
「ああ、また、逢えたじゃないですか……やっぱり思った通り」
「俺のことはどうでもいい、どうした!?」
 先ほどまで身体を支配していた疲労はいつの間にか吹っ飛んでいた。 今は、カシウスの前で涙を隠す様に微笑むレナの態度に対して苛立つ。 通りがかる人が心配そうに此方を見ているが構うものか。
「レナ!」
 改めて、その名を呼ぶ。今度はレナの全身に震えが走った。 そして、涙が。いつもは時々じれったくなる程動じない彼女の瞳から溢れる涙に、 今度はカシウスがうろたえる番だった。しかし内心でそんな自分を戒めて、 再度「どうした?」と、先ほどよりは落ち着いた声で問いかける。
 両肩から、腕を背にまわしカシウスはあやす様にレナを抱きしめた。 抵抗は無く、レナは嗚咽で途切れながらもゆっくり、答えるのだった。
「母が……死にました」


 ベンチに並んで座り、落ち着きを少しずつ取り戻したレナから、 ぽつぽつと事情が語られた。レナは父を幼くして亡くしていること、 唯一の家族でありレナが幼い頃から病に臥せていた母は遠方の教会直営である病院にずっと療養していたこと。 仕送りの為にひたすら働いていたこと。 手紙は不幸なことに天候の都合もあり、危篤の知らせと亡くなったという知らせが同時に レナの元に届けられたらしい。しかし、知らされていても距離的、 そして金銭的な問題で、駆けつけることが出来たかは分からないとレナは淋しげに微笑んだ。
 今更ながら、カシウスは自分の迂闊さを後悔していた。 もし……レグナートに勝てば、などと将来を考えていた筈なのに、 彼女の周囲や家族の事にまったく気がまわっていなかったのだ。
(……俺が、そういう性質だからか)
 自嘲と共にカシウスは思う。家族と疎遠になって、……家を出てもう長い。 自分は母の死を、縁を切った父親から手紙で伝えられて知ったような人間だ。 その時ばかりは自らの親不孝を責めたが、それからも年月は過ぎていった。 カシウスは自ら『家族』を遠ざけて生きて来たのだ。 常に家族を想い、必死に休む間もなく働いてきたレナの気持ちなど推し量れる訳が無かった。
「本当に一人になっちゃいましたから、今度こそ本当に自立しなきゃいけませんね」
 また、微笑むレナ。その表情がカシウスの胸を締め付ける。 今、自分に出来ることといえば家族を失い本当にたった独りになった彼女の傍らにいる事だった。 自分が武者修行などしている間に彼女は毎日、いつもそうしていたように働き、 母の死を知ってからは周囲の配慮や突然目的を喪失したことによる衝撃もあり、 一人でこの三日間を過ごしていたという。 この、街の中に静かに佇むベンチで、病弱な母親がベッドに横たわりながら、 いつも自分に与えてくれたもの、……唄を口ずさんで。
 思わず歯ぎしりをしてしまう。愚かな自分に。自分は彼女と別れる時、なんと告げた?  冗談混じりで言ったことで、レナもその当時はまだ何も思わなかったかもしれない。 しかし今は、後悔の念がカシウスを押し潰した。
 隣に座るレナの横顔をそっと窺う。少し、やつれた印象だった。 じっと見つめ、気の利いた言葉一つ浮かばないまま時が過ぎ、先に立ちあがったのはレナだった。
「お話を聞いてくれてありがとう、カシウス。泣いたら、スッキリしましたから。 私なら大丈夫、カシウスも武者修行で疲れたでしょう? ゆっくり身体を休めて下さいね」
「……が、なれないだろうか……」
「はい?」
「俺が、レナの家族になれないだろうか……いや、なりたいんだ」
 同じく立ち上がり、正面からレナに告げる。やや早口になってしまったのは失敗だった。 あと、もっと女心を掻き立てるような台詞も用意していた筈なのだ。 しかし、仕方ないのだ。剣聖だのリベール最強だのといった肩書きは、レナの前では通用しない。 ただ、恋する愚かな男へとカシウスを変貌させるのだ。 ……否、元より自分は賢くも機微に敏くも無い。 人の心を読むのではないか、と評価されることは多いが、 情報を整理すれば簡単に導き出されるものが殆どである。
 人の心……自分の心すら上手く操作出来ずにいて、他者の、 それも存在を欲する女性の心を上手く捕まえることは至難の技。 何より、小細工などレナの前には不要だった。
 愚かなままでいい。人の痛みにようやく今気づいて、自分が見ようとしなかったものに直面する。 ただ、そのままでいればいい。
「……カシウス、唐突過ぎます」
 微かに固い、苦笑混じりの声。
(やっぱりそうだよなぁ……)
 内心、あからさまにガックリ肩を落としたカシウスだが、 次の瞬間には微かに頬を染めたレナの表情に思わず目を奪われた。
「私たち、手も握ったこと無いんですよ?」
「……あ」
 レナの言葉に頭が真っ白になる。しかし、ここで退いては男が廃る。 そんな見栄はとっくに粉砕されているように感じるが、 カシウスは一度ゴホンと大きく咳払いしてから、改めてレナの手を取った。
「……今更だが……付き合わないか? 家族になる前の予行練習だ」
「雰囲気の無い、誘い文句ですね」
「うっ」
 確かに気の利かない言葉のオンパレードが続いている。 同じ職場の人間に見られたら一生笑われそうな勢いで、だ。
「しかし、これが俺だ」
 開き直って、カシウスは断言した。それは口説き文句でも何でも無い台詞。 しかし、レナはくす、と笑った。止まっていた涙が、またそのなだらかな頬を伝う。
「知ってます。自分が好きになった人のことですから」


 次の瞬間、レナが驚く間も無くカシウスは彼女を腕の中に再び閉じこめていた。 やや窮屈そうにしながらも、レナはカシウスに身を預け、穏やかな気持ちのまま目を閉じた。

必死に毎日を過ごしてきた。そして、突然それは終わりを告げた。 誰にも迷惑をかけずに、たった一人の肉親なのだから自分が支えていこうと誓って生きてきた。 しかし、とっくの前から自分は誰かの手に支えられていたのだ。 今は、それを素直に認めようと思う。 支えてくれた手が、今度は自分の手を握りしめて……選んでくれることを密かに願っていたのだから。 握りしめるどころか、抱きしめられている現状なのだが。
 ずっと、ずっと永い間、口にしなかった言葉を、特別な貴方に捧げよう。

「おかえりなさい」
「……ただいま」
 それは、これからも繰り返される儀式のような……。





BACK