仕事を終わらせると一目散に帰るカシウスが見られるようになって、何カ月かは経つ。 あまりの俊足に、軍部の名物と化している程だ。 それは、カシウスも自分たちと同じ人間であることを認識させる姿でもあった。
 カシウス=ブライトは長女が生まれてから、 育児について部下と相談したりモルガン将軍と娘談義をしていたり、 ……つまりはカシウスがいち早く娘の顔を見たいが為の行動であった。
 軍人はただでさえ帰る日が限られてくる。 しかも、若いながら部下を持つ地位となった今では尚更である。
 カシウスも、始めはそこまで極端では無かったのだ。 しかし、元気な一人娘……エステルをレナの代わりに寝かしつけようとした事がきっかけであった。 レナのように、多少危なっかしい手つきながらもエステルを抱いて「よしよし」と身体を揺らしながら寝かしつけようとしても、 なかなか寝てくれない。エステルはとにかく有難いことに健康優良児であった。 疲れないのかと思わんばかりの大声量で延々泣き続け、 とうとうカシウスは根を上げてレナにバトンを託すことにした。
「よしよし、エステルは元気ね〜」
 とても穏やかな声音。エステルを見つめるレナの表情に思わず見惚れる。
「……流石、母親だな」
「そうですか? エルガーさんにブルームさん、 フェイトさんもロレントで散歩中によくエステルを見てくれるんですけれど、寝かすのが上手なんですよ」
 くすくす笑いながら言うレナにカシウスは思わず「なぬ!?」と大きく動揺した。 ブルームはともかく、エルガーに、同じ軍人でもあるフェイトまで上手いというのは 父親として敗北感を覚える。
「あ、もしかして」
 レナが思い当たったように顔を上げる。 そこには小悪魔めいた微笑も浮かんでいて、素直に綺麗だと見惚れることの出来ないものが潜んでいた。 ……いや、それ以上に自分にも思い当たる、悪い予感があったのだ。
「まだ父親と認識されてなかったりします?」
「は、はっきり言うねぇレナさん? これでもちょーっと気にしてるんだぞ?」
「ふふふ、そのうち慣れます」
 本当に思っていたよりダメージがあったようだ。レナは今度は励ます様に言った。


 そういう経緯があり、カシウスは熱心に、なるべくエステルとの時間を過ごそうと頑張っているのだった。 リベール国軍の精神的支柱でもある程の男が、 愛娘に自分を覚えてもらいたくて必死になっていることを知っている者は少ない。 子煩悩ですね、と話題になる程度には知られてはいたが……。
 ロレント市から少し離れた郊外にある一軒家が、 カシウスとレナ、そしてエステルの生活の場であった。 ロレント市で住めば良いのにと友人から何度か勧められたことはあるが、 カシウスはそれをやんわり断った。軽く運動出来る広さの庭に、程良い大きさの池。 日当たりの良さと森林の香り。そして、何より自分が如何に命を狙われやすい存在かを知っていた。 レナやエステルのことを考えれば、ロレントの方が人目に付き易く安全かもしれない。 そう本人に告げたら、「今更ですよ、あなたと一緒になった時から知ってます」と返されたのだった。
 ロレント市を抜け、我が家までの道のりを走りながらふとカシウスは思う。
「そういえば、父親ってどうやるんだろうな……」
 これこそ、今更の疑問であった。カシウスが家で過ごす時間は世間の父親に比べれば短い方だろう。 共に食事をし、おもちゃを手に一緒に遊び、そして穏やかな寝顔を確認してから基地へ戻る。 そんな日々だ。
 自分の幼い頃を思い出そうとするが、父親と共に過ごす映像は浮かばなかった。 柔らかい母の笑顔は其処にあった。既に、この世から失われたものの一つである。 父親は大工職人であった。 自分が勘当されたのは、後を継ぎたくないことや世界を見て回りたかったこと、 頑固で物解りの悪い父親に嫌気がさしたからだ。 振り返ればなんと幼稚な理由ばかりかと苦笑してしまう。 父は頑固一徹を通し、勘当した息子に連絡一つ寄こさなかったし、 カシウスも意地でも連絡を取ろうと思わなかった。 ただ、残した母にだけは罪悪感を持ってはいたのだが。
 結局、カシウスが家を出て以来の父親との連絡は、母がもたらしたのだった。 最後までカシウスの身を案じていたらしい。 軍部で頭角を現していたことは噂で知る程度で、 彼女の中ではカシウスはやんちゃで向う見ずな悪童のままであっただろう。 母の死を知らせる手紙と共に送られてきた写真は、最後に撮った記憶がある家族三人の姿が残されていた。 もう手元にも置いておきたくないということか、とカシウスは乾いた笑みを浮かべてそれを受け入れた。 捨てるのは母に対して申し訳ない事と、唯一自分に遺されたものでもあったので手元に残している。
 レナには、この事を伝えてはいない。 彼女とはあまりにも環境が違い過ぎるし、自分のこうした酷く冷めた部分を見せるのを恐れたのだと思う。 家族のことを聞かれた時の茶の濁しっぷりを見て察したのか、 レナも無理にカシウスの親について聞くことは少なかった。 ただ、「家族はどんなに縁を切ろうと、離れようと家族のままなんです」と。 そこだけは譲らなかったが。
 カシウスが気になる点はもう一つあった。それは、自分が軍人であることだ。
 効率良く人を動かすこと、敵をせん滅することに長け、 評価されている『剣聖』カシウス=ブライトという人物。 隠しきれない硝煙、そして血の臭いがエステルに不安をもたらしているのかという気がかりだった。 もちろん、世間に軍人を親に持つ子どもは多く存在し、上手くいっている家庭をカシウスも知っていた。 しかし、自分の其れは並みの軍人が持つ以上に特殊なものである。 リベールに今すぐ戦争が起こる可能性は少ないが、 それでもいつ始まってもおかしくない世界情勢である事は確かだ。
 そして、戦争が始まれば自分は陣頭指揮を執ることになる。 多くの人間を守る為、更に多くの人間を殺すことになるかもしれない。 そうなった時、レナやエステルを父親面をして抱きしめる自信がカシウスには無い。 効率よく軍を運営することは出来ても、家族というものに対して抜け落ちたものがあるのだ。

「ただいまー、帰ったぞ〜」
 気を取り直し、カシウスが家に入るとレナが変わらぬ笑顔で「おかえりなさい」と口を動かす。 動かす、というのは声が聞こえなかったせいでそう見えたのだ。 ……今日も、ブライト家の長女は元気な声で泣いていた。 赤ん坊は泣くものだとは聞いていたが、 エステルの其れはロレントの知り合いに聞いても「元気過ぎるな」と苦笑を誘うものだった。 これは当初とは別の意味で、家を郊外に置いて正解だったのかもしれない。
「あなた、エステルを落ち着かせてあげて。あんまり泣いてたら喉が痛いでしょうし」
「う、うむ……」
 やや広めに作られたベッドの中で、此処は狭いのだと大暴れするエステルにカシウスは手を伸ばす。 その様子を見ていたレナがくす、と笑った。
「そんなに怖がってちゃ、エステルも怖がってしまいますよ?」
「……そ、そうだな。そうなんだな」
 あまりにも的確な助言に思わずカシウスは苦笑した。 剣を握る時、戦場で其れを振るう時ですら震えない手が、 エステルに触れる時ばかりは頼りないものに変わる。
「情けない、な」
「全くです、私を初めて抱きしめた時はあんなに豪快でしたのに」
「いや、あれはだな……勢いというか」
「あら? 勢いでプロポーズされたんですか、私は」
「いやいやあれは相当の覚悟を要したんだぞ?」
 そんな他愛無い会話をしている内に、お互いぷっと噴きだしてしまった。 隣に立つレナがカシウスにさぁ、と促す。
「お父さん、しっかり?」
「お母さんのアドバイスは無いかな?」
 カシウスの弱気な発言に、レナはあらあらと言った様子で肩を竦めさせる。 そして、すぐ得意げに笑った。それはまるで木漏れ日のような、カシウスが何度も惚れ直す笑顔だ。
「それじゃあ、魔法を授けましょう。情けないお父さんでもこれならバッチリ、 エステルを寝かせつけられる魔法なんですからね?」
「よし、その魔法を教えてくれませんか?」
 レナのノリに釣られてカシウスもおどけたように笑う。 にっこり、レナは微笑んでからベッドの中のエステルに腕を伸ばし、ふんわり腕の中に収めた。 エステルはレナに抱きしめられて少し安心したからか、泣き声が少し小さくなる。 しかし、それでも泣きやまないのは何故か……と、カシウスが思った時にレナから答えが出た。
「もっと、もっとって……エステルは欲張りさんね?  はいはい、もっともっと大好きって教えてあげる」
 ゆっくり目を細め、レナはすっと息を吸う。愛おしげにエステルを見つめながら。


 おやすみなさい いとしい子よ

 女神の御許 その腕に包まれて

 恵みが たえず 降りそそぐよう

 幸せが 永く 降りそそぐよう

 いとしい子よ 今は おやすみなさい


 
 それは二人が初めて会話をした日、レナが赤ん坊に聞かせていた子守唄だった。 カシウス自身はレナの歌を聞くまでは知らなかったので、ロレントに伝わる子守唄なのかもしれない。 いや、子守唄というものをカシウスは知らなかった。
「はい、どうぞ?」
「…………んっ?」
「何を呆けているんですか、早速実践しましょう、魔法をね?」
「うっ、うむ……」
 じっとレナに注視されていると、流石に照れくさい。 エステルをそっと託され、カシウスは妙な緊張感の中、ごほんと咳払いした。
「お、おやすみなさい……」
 そういえば、歌うこと自体いつぶりだろうか。 記憶を辿ってみても、自分が歌っている姿など見つからなかった。 泣き声は、それでも止まなかった。自分でも思うが、あまりにも……
「へたっぴ」
「うっ……初めてなんだ、勘弁してくれ」
 直球の感想にがくりと肩を落とすカシウス。折角レナから授かった、とっておきの魔法が通じない。 そう思っていたら、レナがカシウスの肩をぽんと叩いた。
「あの時、言ったでしょう? 私だって赤ん坊を寝かしつけるのに、最初はすごく苦労したんです。 私が苦労して会得した魔法を、あなたがすんなり使えるなんて不公平です」
「…………レナ」
「要練習、です。分かりましたか?」
 腰に手を据えて、にっこり笑うその顔は、今は泣き続けているがはしゃいでいる時のエステルと同じ顔だ。
「わかりました、落第生ですが宜しくお願いします」
 ここは、素直に頭を下げよう。自分ときたら、何でもすんなり出来ることに慣れ過ぎていたようだ。 レナが本気で無くても頬を膨らまし言った事を頭の中で反芻して、カシウスは苦笑する。 まだまだ自惚れが過ぎるようだ。
「うふふ、お父さんの美声に期待しましょうねー、エステル?」
 レナが指でエステルの柔らかい頬をつつくと、 それに反応したようにエステルは手を上げきゃっきゃと笑った。
 まるで、「待ってるよ」と言わんばかりに。





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