何が起きたのか分からないまま、エステルはゆっくり目を開いた。 あちこちが僅かに痛むが、それ以上に目の前で起きたことの方が重要で。 すぐ近くで、耳に馴染んだ歌声が聞こえる。 それは、最近ではおねだりしないと聞くことが出来なかった唄……。
 だから、大丈夫。きっと大丈夫なのだとエステルは祈る様な気持ちで眼を開き、 目の前の光景を見たのだ。そして、現実に祈りは届かなかったことを知る。 手をねっとりと濡らす紅に、エステルの背筋がゾクッと震えた。 自分の身体のあちこちにも切り傷や擦った痕があった。でも、そんなことよりも。
「おかーさん!!!」
 エステルは絶叫した。爆音と共に、目の前が真っ暗になった所までは覚えている。 父が何と戦っているのか、それを知りたい一心で周囲を振り切ってロレントの時計台まで走った。
 状況が一転したのは時計台に辿りついて直ぐだった。
 地響きと炸裂音、何かが破壊された音がぶつかり合い、エステルが思わずその場でへたり込んだ時だ。 ふと後ろを振り返ると、いつも慣れ親しんだ時計台の上の部分がボッキリ折れていて、 それがエステルの方へ迫ってきて……
 その直後、大好きな温もり、そして匂いに包まれたのだ。 すぐに、母だとエステルには分かった。安心と同時に、襲って来たのは恐怖だった。
「おかーさん! おかーさん!!」
 周囲は真っ暗だった。ゴツゴツした物に覆われていて、あちこちから悲鳴が遠くに聞こえる。 身体が言う事を聞かず、エステルは闇の中を手さぐりするように目の前の身体を抱きしめた。 レナの手……身体はしっかりエステルの身体全体を守るように包んでいる。
「怖いよ、怖いよ……おかーさん!」
 泣きじゃくるエステルを支える様に、レナの手に微かに力が込められる。 そして、続いて聴こえて来たのは先ほどの子守唄だった。
 エステルの為に、何度もこれまで歌われた母の子守唄。


 エステルが、最後に聴いた母の声……。







 急いで帰ったが、顔を見る事もなく、愛妻は街の人々によって手厚く葬られた後だった。 無理も無い、カシウスは百日戦役をリベールの勝利に導き、軍をその後もまとめる為に奔走していたのだ。
 レナの訃報は、情報がやっとリベール軍の手に掌握され、流通が回復し出した日にもたらされた。 それは、既にレナが亡くなってから三日ほど経った後だった。
 今は、何よりエステルが心配だった。 経緯については手紙をくれたエルガーから詳しく伝えられている。 エルガー夫婦が主にエステルの様子を見にブライト家を訪れてくれているらしい。 家に食事だけでも一緒にと誘っても頑なにエステルが拒否するとの事だ。
「おとーさんが帰ってくるまで家で待つの」
 その一点張りらしい。天真爛漫なエステルの笑顔をカシウスは思い起こし、 それが失われること……そんな予感が耐えがたい恐怖をカシウスに与えた。 飛行船の中、自分の指が震えていることに気づきカシウスは祈るように手を組む。
 レナの訃報を聞いた時、カシウスは今後についての方針を決める会議の途中だった。 モルガンが働き詰めのカシウスに配慮し、時間を作ってくれたのだ。 自分を送り出した時のモルガンのことを、ぼんやり思い出す。 肩に重々しく手を置き、「帰るんだ、後はやっておく」とだけ上司は言った。 そして、リシャールやシードの痛ましげに自分を見る眼に気づき、これは帰った方が良いと判断した。
 会議の中にあり、軍服を当然身にまとっていて。 カシウスは自分の思考がレナの死を『事実報告』として冷静に受け取っているのを、 第三者のように冷めた目で観察していた。 長く戦場に身を置いていたからだろうか、心がきっと死んでしまったのだと自分に言い聞かせた。
 今は、エステルの事を考えなければいけないのだ……自分は、エステルの父親なのだから。
 ―――そして今、帰途に在る。


 ロレントに辿りついた時、通りがかった街の人々が次々に 「大変だったね」「早くエステルの所に帰っておやり」と声をかけてきた。 そんなことは解っている、と半ば投げやりな気持ちのまま家に走った。
「ただいま……」
 我が家は灯火を失ったような暗さだった。 ゆっくり扉を開いて再び「ただいま」と声に出してもエステルからの反応が返ってこない。 まさか、と思いカシウスは一気に階段を駆け上がった。
 ……エステルは、其処にいた。自分の部屋で、真っ暗な中眠っていた。 カシウスはエステルの緩やかな呼吸音を耳にしてほっと安堵する。 そして、恐ろしい想像を一瞬でもした自分を心の中で叱責した。 この娘は、カシウスに遺された家族であり、レナが守ってくれた宝だった。
 ゆっくり、幼い頬にかかる自分と同じ栗色の髪に触れる。 エステルの目もとは腫れあがり、次に触れた頬も濡れていた。
「ずっと、一人で待っていたのか……」
 がくり、と力が抜けカシウスはその場に膝をつかせる。 自然の中を目まぐるしく駆けまわる少女は、記憶しているより痩せ、衰弱しているようだった。
「……い……」
微かに呻くような、エステルの声に身を起こしカシウスは再びエステルの表情を確認する。 エステルの頬を、新たな滴が伝う。小刻みに、歯がカタカタと音を立てた。
「……い、怖い……よ……」
 真っ青になったエステルの顔色に、カシウスは慌てて自室から布団を運び、 エステルにもう一枚被せた。そして、手を……。無力を噛みしめながらもカシウスは娘の手を強く握る。 そうしても、エステルの身体の震えもうなされた表情も変わらない。
 自分が帰ったところで、何も変わらないのだ。何も、出来はしないのだ。 その事実を前にカシウスは愕然とした。事は既に起きてしまった。 自分はその時間から取り残され、こうして結果を前に打ちのめされるしか術は無い。
 現実だけが、親子の前に立ちはだかった。
「お前なら……どうする、レナ?」
 途方に暮れたように、女神を仰ぐようにカシウスは呟く。答えは返っては来ない。 自分で考えるしかないのだ。
「……魔法、か。確かに、お前は魔法使いだったな……」
 エステルの事を必死に考え、頭の中から敢えて遠ざけていた木漏れ日を思い起こす笑顔が記憶に蘇る。 彼女は、家族というものと疎遠で自惚ればかりが先行していた自分の頬を遠慮なく叩いて目を覚ませてくれた存在だ。  彼女から教わった魔法は、実は照れくさくてレナに急かされたりした時しか試さなかった。 レナも、本気で照れていることに気づいてかそこまで迫る事をしなかったのだ。


「おやすみなさい いとしい子よ
 女神の御許 その腕に包まれて
 恵みが たえず 降りそそぐよう
 幸せが 永く……」


 魔法は、そこで途切れた。否、それ以上続けることが出来なかったのだ。
 確かに恵まれていた。本当に幸せだった。それらは今では全て、過去形で語られることだ。 今の我が家を見てみるがいい、こんなにも不幸に包まれているではないかとカシウスは怒りと悲嘆に暮れる。 魔法の唄は、この空間には虚しく響きわたるだけだった。
 カシウスは床にそのまま腰を落とし、力なく項垂れた。 共に戦ったリベールの兵士たちにはとても見せられない姿だな、と皮肉に思いながら……。 こんなにも、自分は脆い。
 不意に、腕をちょこんと触る手に気づき、カシウスは顔を上げた。 ベッド上から、エステルが此方を見ていた。今の情けない姿を見せればますます不安がらせるだろう。 カシウスは自らを鼓舞しつつ「ただいま……」とだけ、小さく言った。
 それに対し、エステルは疲れを感じさせながらも微笑んだのだった。
「おとーさんの下手っぴ。剣と口は上手いのに歌はてんで下手なんだから」
 辛辣ながらも、そこには幼いながらの気遣いが込められている。 カシウスはゆっくり立ち上がり、細いエステルの肩を抱きしめた。
「本当だな、父さんは剣と口先ばかりで他はてんでダメだ……。 エステル、ずっと一人で大丈夫だったか?」
 このままでは父親形無しだと思いつつ、カシウスもエステルを気遣う。 次に娘の口から出たのは、別の、それも最も重要なことだった。
「おかーさん、死んじゃったの……」
「…………」
「おかーさんね、最後まで泣いてたあたしに歌ってくれたよ」
「……そうか、レナは、強いからな……」
 どうにか、なんとか避けようとしていたものを、娘に突き付けられたことにカシウスは自嘲した。 エステルは幼いながらも現実と懸命に向き合っていた。この、たった独りの家の中で。
「おとーさん、ひどい顔だよ」
「…………ひどいとは、酷いな……」
 苦笑しようとしたが、真っ直ぐなエステルの瞳に表情が固まる。真摯な視線は自分に嘘を赦さない。
「ここで寝なさい!」
「ん。ここでか?」
 レナと共に寝る機会はまだあっても、カシウスと一緒にベッドで寝る機会は殆ど無くなっていた。 だから、思わず確認してしまった。
「そう、寝るの! あのね、おかーさんより下手っぴだけど、おとーさんよりは上手く歌えるよ、あたし。 おとーさんに歌ってあげるから、ちゃんと休みなさい!」
「……そういう、事か……」
 この力強さは間違いなくレナから受け継いだものだろう。 エステルに請われカシウスは軍服のままである事に一瞬、躊躇しながらもエステルのベッドに横たわった。 それを見て、エステルも満足そうに頷く。
 そして、深呼吸して……


「おやすみなさい いとしい子よ

 女神の御許 その腕に包まれて

 恵みが たえず 降りそそぐよう

 幸せが 永く 降りそそぐよう

 いとしい子よ 今は おやすみなさい」


 エステルの唄声は幼いが、何処か歌い方がレナに似ていた。 それも当然のことだ、ずっとレナの唄を聞いてエステルは育って来たのだから。

『へたっぴ』

 笑いながら、言い放ったレナの顔を思い出す。 エステルは父親に似なくて良かった、こんなにも上手に魔法を使えるのだから。 二度目の子守唄のリピートが終わり、再び部屋が静かになった。
 エステルは、不安げな表情でカシウスの顔を覗き込んだ。
「おとーさん、怪我してるの……?」
 小さな手が恐る恐る伸びて、カシウスの頬に触れる。 そこでようやくカシウスは気づいた。きっと、これはエステルが使った魔法のせいだろう。 遠くへ置いてきたものが、事実に触れながらもそれに向き合わなかった臆病さと共に、 今になって押し寄せてくる。カシウスの胸を圧迫するように、津波のように感情が遅れてやって来たのだ。
「そうだな、痛いんだな……こんなにも」
 喪失するということ。自分が今まで斬り捨ててきたもの、遠ざけてきたもの。 それらの重さが今になって、レナの存在と共にカシウスに実感を伴って受け止めさせた。 心にぽっかりある空洞には不安や恐怖、自分の冷酷な面も含め、全てが詰め込まれていた。
 そこに、子守唄がリフレインする。甘く、優しく、温かい。 全てを包み、赦す様に。傷口にそっと触れて、痛みを自覚させる。撫でるように、慰めてくれる。 大切なものが、其処にはあった。 喪失感がこんなにも大きいのは、そこに後悔と幸せが沢山存在していたからだ。
「エステル、下手っぴだけど父さんも一緒に歌っていいか?」
 震える声で問うと、エステルは泣き笑いの表情で頷いた。
「おとーさんが今より上手くなったら、お母さんに聴かせてあげようね。ぜったいビックリするから」
「そうだな、一緒に驚かせよう」


 ……今度は向き合える筈だ。
この、彼女が遺してくれた存在。大切な娘であるエステルと一緒ならば、これからも。





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