名前だけしか知らない少年から、今では自分の弟に。 辛い事が過去にあったことは確かだけれど、何があったかは知らないし、聞かない。 それは、エステルが自分で決めて、少年……ヨシュア自身にも告げたことだった。
 しかし、何があったか知らないと、どう対処すれば良いのか解りにくいのも必然。 今、目の前でうなされている少年に対して有効な薬をエステルは判断しかねていた。
 元より、なかなか寝付かない少年であった。 自分が少しでも身じろぎすれば、 すぐに気を遣ってエステルの為にスペースを空けてベッドを譲ろうとする。 それでは折角の兄弟の団欒が台無しなので、 エステルが無理にギュッとヨシュアの腕を掴むか服の袖を握ると、 諦めたようにヨシュアはベッドに留まりエステルと共に夜が明けるまで傍にいるのだった。
 カシウスからヨシュアに部屋を宛がわれてからも、 エステルは何かとヨシュアと共に朝までの時間を過ごすことを好んだ。 特に、友人であるエリッサやティオ達と怪談話をした日はヨシュアが呆れるのも無視して先に少年のベッドの中に潜り込んで待機するのだった。
 そして、今のようにヨシュアが独りでエステルが知らない痛みに耐えている夜。 エステルにとってはただの勘なのだが、今夜はヨシュアと一緒にいよう、 と一大決心してから頑なにヨシュアが嫌がっても無理やりベッドの中に潜り込む。
 声に出して唸る訳でも無く、ヨシュアは声に成らぬ声を、闇に向かって投げる。 眉間には皺が微かに寄り、触れると肌が冷や汗で湿っていることが解る。 慎重に手をヨシュアの額に伸ばし、ゆっくり撫でる。
「おもいっきり叫んじゃえばいいのに」
 ギャーとか、ワーだとか。エステルがいつも驚いた時、怖かった時に自然に飛び出す声。 ヨシュアがいつだってそういった自然に起こるものすら抑える事をじれったいと感じる。 そのじれったさが苛立ちに変化すると、それは行動に移り変わり、 少々乱暴な方法でエステルはヨシュアの反応を引き出しては「どーだ、参ったか!」と胸を張るのだ。 ヨシュアにとっては堪ったものでは無い、 と一部の激しすぎるエステルの行動に呆れる視線もあるかもしれない。 しかし、ヨシュアはエステルの行動をいつも受け入れていた。
 そして、それが大きな答えである事を幼いエステルは理解できていなかった。 ヨシュアの、沢山に交わす言葉以上の……。
 エステルにとっては目の前のヨシュアをどうにかする事が今は重要だった。 きっと自分が深い夢の世界に旅立っている間にも、ヨシュアはずっとこんな状態でいる事が多いのだろう。 「ヨシュアのお姉さん」であるエステルにしてみれば捨て置けない事態である。
 エステルは自分で出来うる最大の緩やかな力でもって、ヨシュアの艶やかな黒髪に触れる。 ヨシュアの眉が一瞬だけぴくんと反応した。
「………おやすみなさい いとしい子よ」
 エステルのいつもの元気溌剌とした声は、この時ばかりは闇の中に染み入るように溶けていった。 柔らかい、穏やかな唄声。自分が歌ってもらった時のことを思い出しながら、 エステルはヨシュアの髪を撫でながら唄を続けた。 暗い部屋の中、少女の唄声だけが灯火のように光る……。
 その唄声も次第に途切れ途切れになり、ようやく本当に止まったところでヨシュアはそっと目を開いた。 ブライト家に来てから、カシウス=ブライトが家にいない間もいつ襲撃を受けても対処できるように、 基本的にヨシュアは浅い眠りにしか就かない。
 元よりそんな体質に「作られて」いたのだ。 だから、エステルがどんな事をしようと、頑張ろうとヨシュアが深い眠りに就くことなど不可能なのだ。 暗い闇に捕らわれている自覚はある。 だけど、それは既に自分の一部であり、一生纏わりついてくる性。 これからも自分の中で飼い殺すしかないものだ。
 そう、自分が生みだしてきた血の海を直視することは……。
 そんな時、どうしようもなく震える身体をいつもエステルが不安そうに見つめていることには気づいていた。 守る筈の存在に、守ろうとされている、滑稽な図だった。 今日もそんな夜が訪れるのかとヨシュアは漠然と考えていた。 ヨシュアの不安はエステルに伝染し、エステルの不安はヨシュアに伝染する、いたって簡単な図式だ。
 しかし、今日はいつもと違った。 エステルがヨシュアに投げかけたのは不安では無く、いつもの荒っぽい飛び蹴りでも無く。 ヨシュアは自分の隣で穏やかな寝息を立てる少女を見つめる。 そして、先ほどエステルが自分にそうしたように、遠慮がちに栗色の前髪にそっと触れた。 ふわり、と甘い香りがヨシュアの鼻をくすぐり、反射的にすぐ手を引いてしまったが……。
 エステルはどんなに腕白で粗野で虫や釣りの方がぬいぐるみやアクセサリー集めよりお気に入りだったとしても、 女の子である事に違いない。「もっと女の子らしくすれば?」と呆れた口調で言うと、 エステルは「あんですって!?」とムッと言い返してくる。 本人も周囲の同世代の少女たちに比べれば、あまり女らしくは無いことをある程度は自覚しているのだ。 だから、余計にエステルが持つ数多な一面に遭遇してはヨシュアの心が大きく揺さぶられる。
「……本当の君は、どれなのさ……?」
 この質問は意味を為さないとヨシュアも解っていた。 どの一面も、エステルという少女を構成するものなのだから。
『そばにいる』
 そう言って微笑んだ少女も、出逢ってそうそう怪我人に飛び蹴りを喰らわせた少女も、 同じエステルなのだ。先ほど、ヨシュアの安らぎの為に捧げられた子守唄を歌うエステルも……。
 ヨシュア自身も気づかないでいた、 エステルに対する想いも色をころころと変えていき、 少しずつそれは自らの手に触れて確認できる程には大きく成長していった。
 少女に触れることへの罪悪感、共にいる時の甘やかな香り。 それらはヨシュアの心を掻き立て、揺さぶり、強く抑えつける鎖でもあった。
(そもそも、こんな年で同じベッドに潜り込むとか、無防備過ぎるんだよ……)
 思わずため息が漏れる。 絶対的な信頼云々以前に、エステルの中に「そういった」異性への関心が殆ど無いのだろう。 無邪気さは、時に人を傷つけるものだ。 ヨシュアとてエステルをどうこうしようなど考えた事も無い。 ……無いのだが、ざわつく心は無視出来ない。
 もし、自分では無い違う誰かが自分より先に、「弟」に……家族になっていたとしたら。 もし、その自分とは違う少年が、闇を抱えていたら。 ヨシュアにそうしたように、カシウスはきっと手を差し伸べ、エステルは無邪気に受け入れていただろう。 自分が、どんなに恵まれているか、運が良かったか……それを痛いほどヨシュアは理解していた。
「……恵みがたえず 降りそそぐように、か」
 先ほどエステルが歌っていた子守唄のフレーズだ。 ヨシュアは微かに苦笑した。自分には不相応過ぎる願いだ。 しかし、そう思う事はエステルを傷つけるだろう。 エステルから与えられる恵み全てが、ヨシュアには身に余るものに感じられた。 罪人に降りそそぐ陽の光にしては、あまりにも温かすぎる。 いや、太陽とはそういうものなのだろう。カシウスも、エステルもそういう人間なのだ。
 自分は運よくカシウスに助けられ、エステルと共にいる時間を得た。 罪人に与えられた、ひと時の夢……自分に与えられるべきは牢獄の闇であり、今、此処にいること、 この空間自体が現実味が薄すぎた。
(だから、夢なんだ……)
 目を閉じると、闇がヨシュアを覆う。 それが現実で、エステルの寝息も、微かに触れる腕の温もりも、子守唄も。
 きっと夢だ。
(これが現実だなんて、そんな風に自惚れたりしないから……どうか……)
 この幸せが永く続きますよう、とヨシュアは先ほどの子守唄のフレーズを想いを込め口ずさむ。 女神に対する祈りよりも、今は夜の闇に隠れた太陽を仰ぎ見る気持ちに其れは似ていた。





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