覚醒しきっていない頭で、窓からの薄明かりでまだ時刻は深夜といったところか、とヨシュアは思う。
リベールを発って、異国の地を転々と渡る旅。
二人にとっての目的は微妙に食い違う点もあるが、共に歩もうという誓いは今も胸にある。
そして、すぐ隣で寝ていた少女がベッドから身体を起こし、
窓際でじっと月を見つめていることに気づいたのは直ぐ後だった。
ベッドに残る温もりから、離れたのは五分ほど前と推測する。
エステルはまだ、ヨシュアがベッド上から自分を見つめていることに気づいていないようだ。
薄手の掛布を一枚だけ身にまとい、
肩や腰を隠しているが、女性の象徴たる乳房やむき出しの下肢のラインは月明かりの中に映え扇情的である。
身体を重ね合った熱が未だ燻って蘇る。
月の光の中、浮き出されるエステルの横顔は、普段の彼女の印象からは遠い。
そして、先ほどまでヨシュアの腕の中にいたエステルとも。
エステル=ブライトは遊撃士のベテランとして既に頼られる存在だった。
人を助ける為に向う見ずな行動に出る事は今でもあるが、
周囲への配慮は遊撃士になりたての頃と比較するとかなり上手くなった。
ヨシュアがする配慮とは違う、エステルの配慮とはひたすら誰かを守る為に行われる。
だから、その点に於いてヨシュアはどんなに気がまわってもエステルには敵わないと思っている。
その腕は、その瞳は、誰かの為にいつも振るわれ、先を見つめている。
それが、エステルが決めた道であり性なのだろう。
そんな、傍目には強靭に見える彼女の瞳に不安定な光を、そして濁った熱を灯すことが出来るひと時。
エステルはいつでもエステルであるに違いない。
しかしいつもと違う何かを生み出そうとするのか……。
ヨシュアの中に在る男としての性が、エステルを腕の中に閉じ込め、
その身体全てを奪おうとする征服欲を働かせるのかもしれない。
肌を重ねることは想いを確認し合う行為である。
言葉だけでは補い尽くせないものを交わす儀式……。
そして、それだけでは無い淀んだ欲が確かに存在するのだ。
自分は神でも聖人でも無い。そう、それはエステルにも言えることだ。
腕の中で小刻みに震え、声を漏らすまいという羞恥心からか口元を押さえるが、
それでも隠しきれない吐息の中にこもる熱。快感を必死に逃そうとする姿は、何と戦っているのか……。
今のヨシュアには、明確でなくてもその輪郭を指でなぞることが出来る。
少し前までの自分にはきっと解らなかったことだ。
露と消えていきそうな声で、エステルが不意に歌い出す。
それ自体は、これまでもヨシュアが何度か見てきた光景だった。
安らかな眠りを約束し、誰かの幸せを願う唄。
そして、恵みを祈る唄だ。
しかし、今の彼女は幼い頃ベッドで並んで向かい合い、
無邪気に互いの存在をそれぞれ違う意味合いで意識しながらも戯れていた頃と同じでは無い。
胸元や大腿、露わになっている肌から見える情事の痕が残る身体と、月明かり。
それらと部屋の中に響く子守唄は非常にアンバランスなようでいて、不思議と絵になった。
ゆっくり、エステルは腕を動かした。
掛布が身体から流れ落ちるのも気に留めず、膝を曲げてぎゅっと身体を縮ませるように三角座りになる。
腕は、ぎゅっと身体を抱きしめて。唄声はその所作の中でも途切れず続いた。
今、この子守唄は誰に捧げられているのか。誰の為に歌われているのか。
エステルはそんなこと、気に留めていないのだろう。
普通に考えればただ昔を懐かしむように歌っているように見えるかもしれない。
しかしその眼は確かに今を見つめていた。過去ではなく、今を。
「エステル」
恋人の声にはっと顔を上げる。
今まで、本当に自分が見つめられていた事に気づかなかったらしい。
そんな所は、いつまでも残る彼女らしさの一つだと思う。
床に落ちた掛布を拾い上げ、後ろからヨシュアは既に熱など残っていない肩にそれを掛けた。
それほど寒くない室内とはいえ、むき出しのままの状態でいた為に後ろから抱きすくめるとひんやりした。
まわされた腕に、エステルは安らいだ表情で受け入れ身体の力を抜いた。
微かに、ヨシュアに預けられる重み。固く組まれていた腕が、ゆっくり解かれる。
「懐かしい歌だね。何度も歌ってくれたっけ」
「あ、やっぱり起きてたんだ」
当時は気付けなかったこと、そして今なら気付く事ができること。
それは、エステルにも言えることだ。
子守唄を聞かせるつもりが、いつも先に自分が寝てしまい、
布団は自分の方にかけられいつの間にかヨシュアは別の場所で……例えば部屋の外、
同じ部屋の床の時もあったが寝転がっていることがあったのだ。
大分気を遣わせていたんだと今になってエステルは苦笑してしまう。
「……身体、冷え切ってるね」
「…………うん、そうね」
ヨシュアの腕に力が籠り、エステルの身体が更に引き寄せられる。
互いの肌が密着して、羞恥心が湧いたのか僅かに頬を染めてエステルが身じろぎした。
「寝直そうか、明日も昼から依頼を見に行くんだろう?」
「うん……ちょっと、ね。月が明るいなぁって気になって」
頷いたものの、何処か引っ掛かっている様子なのが見て取れた。
ヨシュアはふと、穏やかな微笑を口元に浮かべる。
「……寝付けないなら、僕が君に子守唄を歌おうか?」
「え。ハーモニカじゃなくて、ヨシュアが歌うの?」
意外そうに、顔だけヨシュアの方を向かせてエステルが問い返す。
眼が丸々と、そして無邪気に光っている。
「君の子守唄でもいいし、なんならエレボニア式の子守唄でも……お好きな方をどうぞ。
それとも、続き……する?」
エステルの耳元に唇を這わすとサッと顔、そして耳が紅く染まった。
一気に全身に緊張が走るのが伝わり、ヨシュアは「依頼があるからね、だから今のは流石に冗談」と
エステルの髪に軽く顔を埋めながら笑った。
依頼が無かったらするのか、と突っこんでやりたいが、
墓穴を掘りそうなのでエステルは軽い反撃のつもりで自分を今も抱きしめるヨシュアの腕をやんわり抓って抗議した。
「あはは……で、どうしようか?」
「そうね、寝直そうかな。歌は、……うん。次の機会にお披露目してもらおっかな」
「了解」
腕が解かれ、ヨシュアがエステルの横に並び手を差し伸べる。
エステルは一瞬だけ、ぴくりと迷ったが差しだされた手に、自らの掌を重ね合わす。
再び、寝台が二人分の重みを受けギシリと唸った。
遠慮がちにエステルはヨシュアの方に向き直り、
頬を……旅を始めた頃よりずっと逞しくなった目の前の胸板にぴたりと寄り添わせる。
「迷わなくていいのに。共に歩くと先に言ってくれたのは誰だっけ?」
悪戯っぽくヨシュアが言う。
「弱いのは、嫌だから」
返ってきたのは簡潔な答えだった。幾ばくか、間を置いて再びエステルは口を開く。
「でも、結局これも弱さなのよね」
「頼るのは、悪い事?」
「……ううん。そんなこと、ない」
ヨシュアの唇がエステルの瞼、頬と辿っていく。
それ以上はしない、と雰囲気で感じたのでエステルは眼を閉じてその感触を受け入れた。
「弱いのは、悪い事……?」
「ううん……違う」
啄ばむように、唇を重ねる。一度、そして二度目と。
緋色と琥珀、それぞれの瞳の色が闇の中で交錯する。
「違う……あたしはね、」
エステルが泣きそうな笑顔を浮かべる。
ヨシュアは常に誰かの為に戦いに身を置く大切な少女の身体に腕を伸ばし、抱き寄せた。
腕の中に包まれながら、エステルは声に為らぬ声で、その言葉の続きを闇に投げた。
きっと、ヨシュアにはとっくに解っていることだ。
……だから、きっと今は、このままでいい。
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