朝食の準備はヨシュアが手早く作った簡単なサラダとパンだ。エステルとヨシュアは向かい合わせに座りながら、慌ただしく食事を済ませる。レンはまだ眠っているようだった。二人が早めに出発する日には珍しい光景ではないが、昨日のことがある。エステルはちら、と階段の方を気遣わしげに見やった。そこにレンの気配は無いと分かっているのだが。
「エステル、時間」
「あ、うんっ!」
 歯を磨くために、エステルはぱたぱたと洗面所に走る。窓から零れる光は薄く靄のよう。昨日は清々しく晴れていたのに、今日は午後から雨が降るらしい。



 ゆっくり、起き上がる。既に家の中に二人の気配はなかった。レンは手短に髪を整え、着替えも済ませてから階段を下りると予想通り、テーブルの上にヨシュアが用意した朝食が並んでいた。料理を見なくても、几帳面に神経の行き届いたセッティングを見れば、今日はヨシュアが当番だったと分かるのだ。
「いただきます」
 レンの声だけが部屋に響く。
 今日はカシウスが帰ってくる日……。当日になってはっきり自覚した。、レンは、緊張している。実際に会えば日常会話で終わるのだが、話す前は妙に身構えてしまう。
 そして、今回は昨日の一件もあった。家族のムードメーカーであるエステルが調子を取り戻していないと、どんな空気になるのか予想がつかない。その場合、ヨシュアが取り繕うのかもしれないが。きっとヨシュアはカシウスに昨日のことを話すだろうという確信があった。それも、エステルを通さず直接カシウスに。話すことと話さないこと、そして共有するか否か。ヨシュアなりに考えて行動しているのだろうが、エステルに言わせると「ズルイ」ということらしい。
 レンがエステルと初めて出逢った時、不思議だったことの一つにまるで剣聖の娘である自覚のなさがあった。ヨシュアも驚いたらしいが、エステルからは何も知らずに過ごして来たと後に聞いた。恐らく、結社の執行者であったヨシュアやレンの方が、カシウスについての情報は事細かに知っている。
「それを言うならエステルは素性の分からない僕をあっさり弟にしたし、そういう性分なんだろうね」
 やや複雑さと共にヨシュアが笑って話していたことがある。そして、次にレンの番だった。家族になろうとエステルとヨシュアが手を差し伸べたのは……。
 最も身近な父親の素性は知らないけれど家族で、ヨシュアのことを何も知らなくて、過去を知ってもやっぱり家族のまま。そしてレンの過去を全て知ったうえでエステルは家族に迎え入れようとした。もちろん、レンがエステルを試した経緯もあるのだが。
 ヨシュアがエステルを通さずカシウスに話すことがあるように、レンにもエステルとヨシュアを通さずカシウスと話したことがあった。


「エステルは君を家族にしたいと強く望んでいる。ヨシュアも……」
 カシウスが久しぶりに帰っていたその日、遊撃士二人が緊急の仕事で家を出て行き、カシウスとレン、二人きりになったことがあった。テーブルで斜めに向かい合い、ぎこちない空気を先に破ったのはカシウスだった。
「ああ、もちろん俺も君を歓迎している」
 レンの眼の奥に宿った不安を否定するように、カシウスはカラッと笑った。しかしすぐ表情を改める。
「しかしだ、まだ迷いがあるなら君はレンのままでいていい。レン・ブライトにならなくても」
「…………それは」
「俺がこんなこと言ったらエステルは怒るかもしれんがな。エステルは君をとても愛している。それは君も感じているだろう?」
 どう答えれば良いのかレンには分からない。だから、黙るしかなかった。
「姓が変わるだけの簡単な話に見えて、なかなかこれが違うんだ。大人になれば尚更な。だから、君は自由でいていいと俺は思っている。エステルが言うように、大人になって好きな場所に……それが此処でも、クロスベルのご家族の所でもいいんだ」
「――ヨシュアには、そうしなかったのに?」
 本当に聞きたいことはそれでは無いのに、いざ口に出たのはそんな質問だった。
「ヨシュアの場合は後見人がいた方が今後生きて行きやすいだろうし、俺の我が侭だ。エステルの望みでもあったしな。でも、君は違う。その気になれば何処へでも行けるだろう」
「何処へでも……」
 反芻してみた言葉は、とても優しいようで胸にチクリと痛みを覚えた。自由とは、時に残酷だ。指定される方がどんなに楽かレンは知っている。
「俺はもちろん歓迎する。しかし、エステルがああだし……つまり、君にのぼせ上がっている状態だからな……ヨシュアもエステルに賛同するだろう。だからこそ、俺は君と一定の距離を保ちつつ家族として接しようと思っている」
 カシウスの言葉はレンにとって不可解だった。否、言っている意味は分かるつもりだ。エステルの願いでレンはブライト家に招かれ、カシウスはそれを了承した。そして、家族として認めたうえで距離を置くというのだ。
「レン。エステルに囚われてはいけない」
 初めて一対一で対峙したカシウスの紅い眼はエステルと同じようで、光の加減で微かに色彩が違った。エステルとカシウスは家族だが違う人間で、考えも違う。とても当たり前のことだ。しかし、レンを巡って意見が食い違っていることに複雑な念を抱いた。エステルが自分にのぼせ上がっている、とても愛しているという言葉はレンにとっては心地よいものだった。レンにも、独占欲が少なからずある。ヨシュアとは別の形でレンはエステルの愛情を受けていた。自分を見つめ、抱きしめてくれる存在とはこうも安らぐのか、夜の悪夢だって消し去るのかとレンは知ったのだ。
 しかし、カシウスの言葉がレンの中で鋭く引っ掛かった。
『エステルに囚われてはいけない』
 囚われるとは不穏な表現だ。しかし剣聖なりに考えての言葉だろう。頭の片隅に留めておこうと思った。
「ま、堅苦しい話は終わりにして今の内にティータイムとするか」
 立ち上がり、カシウスは先ほどの空気と打ち消すかのように破顔した。それは逆に「忘れるな」と諭すようにも見えて、レンは大人しく頷くのだった。
 この話は、カシウスもレンも、エステルとヨシュアには明かしていない。



「出迎えご苦労さん」
「父さんも、お疲れ様。休みを取るの大変だったんじゃない?」
 カシウスから土産の入った紙袋を片手で受け取りながらヨシュアが聞くと、平然とカシウスは言ってのけた。
「大丈夫だ、部下が優秀だからな」
「そうだったね、大変なのはそっちの方か」
 脳裏に毅然としながらも疲れを隠せないシードの顔が浮かぶ。
 カシウスは定期船で予定通り帰って来た。外は土砂降り。数分前から突然降りだしたのだ。カシウスもヨシュアも傘を差しているが、立っているだけでどんどん雨粒の染みが増えて行く。エステルはというと、ステラから今日も差し入れがあるからと伝言を貰っていたので先に受け取りにヨシュアが行かせたのであった。このまま家に帰って合流した方が賢明だろう。昨日はあんなに晴れていたのにと、思わず空を見上げて嘆きたくなる。視界も悪いし、いつも聞こえる子ども達のやんちゃな声はひとつも聞こえず、路地を叩きつける雨音が我がもの顔で鳴り響いていた。
 ヨシュアはふと、昨夜の件……ロイド達からの手紙と、気まずくなった時のことに関して話そうかと思った。しかし、この天気だ。さっさと帰ってから機を見つけて話そうと気持ちを切り替えた。
「じゃ、帰るとするか」
「そうだね」
 視線を交わして微笑む。今は一秒でも早く、家に帰りたい。土砂降りのロレント街を早足で歩いた。



 もうすぐ三人が帰ってくる時間だ。レンはテーブルの上で広げていたリベール通信を片付ける。カシウスが定期的に購入しているのをレンも読んでいるのだ。因みに記者であるナイアル、カメラマンのドロシーとは時折ブライト家に遊びにくることがあるし、エステル達の仕事にくっついて行く時にも何度か面識がある。
 部屋がにぎやかになる前に他も片付けてしまおうと、レンは立ち上がる途中で気がついた。外から聞こえだした、それは……。
「雨……洗濯物!」
 まだ家事というものに馴染んでないせいだろうか。天才と誰もが認める少女は慌てて家を飛び出した。普段は一人だけであまりしない家事を進んでやってみたらこの様かとレンは自分の鈍さに苛立ちを覚えた。
 庭に出ると、洗濯物を取り込んでいる途中のエステルが其処にいた。
「エステル!」
「ひゃ〜〜、降って来たわね! レン、こっちお願いね!」
「ええ!」
 エステルからエステルとレンの服が主に詰め込まれたかごを受け取り、レンは家の中に走った。エステルも残りの洗濯物を忙しく引っ張り込み、抱えて家に駆けこんだ。
 レンが取り込んだ方は少し乾かせば大丈夫そうだったが、男性陣二人の洗濯物はそうもいかないようであった。それよりも……。
「っくしょん!」
 洗濯物を取り込んでいたエステルの方がずぶ濡れである。家に入るなり盛大なくしゃみをして、全身を震わせた。
「エステル、お風呂に入って」
「あははっ、あたしは頑丈だから大丈夫! それよりレンも濡れてるじゃない? レンが先に」
「だめ! エステルが先に入って!」
 レンの語気が強まる。エステルは一瞬きょとんとしてから、柔らかく微笑んだ。
「わかった。んじゃさっさとシャワー浴びてくるわ。レンもちゃんと拭かなきゃダメだからね?」
「言われなくても分かってるわ」
 ツンと言い返すと、エステルは楽しそうに笑ってから階段を上がった。歩くだけでエステルの栗色の髪から水滴が落ち、床を濡らした。エステルが風呂に入っている間にさっさと拭いておこうとレンは思った。自分のミスは、自分でカバーしなければいけない。それがどんなに些細なことであっても。
 レンは再び視線を取り込んだばかりの洗濯物に移す。「お先に〜」とエステルが風呂場にぱたぱた入るのを確認してから、両手でレンとエステルの分が入ったかごを持ち上げた。ヨシュア達の分はもう一度洗うか乾かさないといけないだろう。ひとまず、部屋に放置しっぱなしでは二人が帰った時に不格好だ。何よりレディーの嗜みに反する。この家に女性がエステル一人の時、どのように過ごしていたのだろうかとレンは思ったが、その直後に分かりきったことだと苦笑した。気を取り直して、レンは階段を落ち着いた足取りで上がった。
 まだブライト家の中でもひと際木の香りが濃い部屋。レンの為に増築された部屋は、家具は多く無いが女の子らしい上品な印象を与える。カタログで見つけた本棚が届けば、生活感が出るだろうか。女の子らしい愛らしさ以上に、完璧な配置、整然とした印象を敏感な者は受けるかもしれなかった。
 レンは自分の服を手早く選び取り、ベッドの上に放り投げる。エステルの風呂はそこまで長くないうえ、男性陣が帰ってくるまでに床を拭いて完璧にしておきたい。さっさと残りの服を持ってエステルの部屋に向かった。
 エステルの部屋に入るのは、そう珍しいことでは無い。レンの部屋が出来るまでは、ここでレンは生活していたのだ。同じベッドで、遅くまで他愛のない話をしながらクスクス笑い声を潜めあい、いつの間にか眠りにつく。そんな日々を送っていた。レンの部屋ができてからも、時折レンがエステルの部屋に遊びに行ってそのまま寝たり、おやつを一緒に食べたり……。
 かごをベッドの傍に置いてから、ふと気付いた。化粧台の上にある、手紙の存在に。雨音と階下のエステルがシャワーを浴びている音が混ざりあって、まるでレンの耳を叩きつけるようだった。そして、ドクンと。胸の音がやけに喧しい。エステルがおかしな反応を示した原因。ヨシュアはそれをきっと知っている。そしてカシウスにも話すのであろう内容。
「ねぇ……エステル、家族になるって……何?」
 自分だけが知らない家族の秘密。どうすれば相手が安心するか、納得するか。それとも妥協するか……それらをレンはよく知っている。だからこそ聞きわけの良い招かれた存在として、これまで卒なくやってこられたのだろう。この関係は、実はそんな脆い糸で結ばれたものなのだ。ヨシュアがかつて、そうであったように。
「どうせレンが知っても知らない振りをしておけばエステルは気付かないんだから」
 カシウス、それにヨシュアはもしかしたら気付くのかもしれない。特に、カシウス相手だとレンでも分が悪い。しかし隠されたら気になるのは本能。知らない振りを貫けば済む話である。
 レンは意を決し手紙に、白い指を伸ばした。
 それはとても容易なことだった。エステルのシャワーが終わるまでに、手紙の内容を把握するなど。雨の音と、シャワーの音……片方が、途切れた。レンは慌てて手紙を元の場所に戻す。ふと、鏡台に映る自分の顔が眼に入りレンは眉を顰めた。
「何で?」
 頬を伝う冷たい筋の意味がレンには掴めない。
 レンは荒っぽく顔を拭ってから階段を下りた。エステルが風呂場から出てきた気配を感じたからだ。
「レン――? 風邪引いちゃうわよ」
 エステルがバスタオルを頭にかけたまま、薄手のTシャツとショートパンツ姿で声をかける。レンは喉の渇きを感じつつ、可憐に微笑んでみせた。
「じゃあ、次はレンが入って来るわね」
「うん」
 エステルはキッチンに常備されているお茶をコップに注ぎ始めた。そんな後ろ姿を見てから、レンは背を向けた。
「ほら、気付かない」
 そして、この言葉も届くことは無い。レンの口元に先ほどとは違う冷ややかな笑みが浮かんだ。




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