「ただいま」
 ヨシュアとカシウスは傘で防ぎきれなかった雨で所々濡れていた。エステルは「おかえり」と二人にバスタオルを手渡す。雨は激しさを緩めそうにもない。予報では明日も一日雨らしい。
 レンはそそくさと椅子に疲れた様子で座り込んだ二人の前に温かいお茶を置いた。時間はここまでレンの計算通りに動いていた。
「ありがとう、レン……それで、特に変わりないか? ギルドの方は」
「いつも通り、人手は足りないかな。リベール全体の遊撃士でお互いカバーしあって何とか動いてるけど」
「そうか、アイナも大変だな。シェラザードは壮健か?」
「仕事の後の一杯を生き甲斐に今日もはりきってますよ」
 そして、いつものシェラザードならエステルとヨシュアに絡んでくるのだが今日はカシウスが帰ってくることもあり、大人しく引き下がった様子だった。レンが家で待っていることも配慮したのだろう。酒は飲んでもその辺りの思考は曇らないのがシェラザードたる所以だ。
「家の方は変わりなかったか?」
 続いて、いつも通り確認のような質問だった。
「変わりは……」
 エステルの表情が、微かに。まるで小石に躓いたような変化だった。それに傍らから助け船を出したのはレンだった。
「いつも通りよ」
 嘘だと気づかれるだろうが、見ていられなかったのだ。
「そう、か」
 ひとまず今は、返答がこうなると分かっていたから。きっと黙っていてもカシウスにはヨシュアから話すのだ。レンとエステルの知らない場所、時間に。それがレンには手に取るように想像がつく。
(ねぇ、エステル。家族って、なに?)
 また心の中でレンは投げかける。エステルは暖かい。ヨシュアも、カシウスも暖かい。此処はまるで、日溜まりのような場所だった。
 でも、レンは知っている。日溜まりの外側は、やはり冷たいということ。本当は皆が知っていることなのだ。ただ、目を背けているだけ。外側から、糸がほつれないように立ち振る舞うのは元から得意だった。ずっとそうやって生きてきた。世界がレンの為に動かないのなら、そうなるよう仕掛ければいい。傍観すればいい。結果は最終的にはやって来る。そして、それはいつもレンが望む最上のものである筈だった。
(レンが望むもの……?)
 この場合、何が最上の結果なのか。エステル、と声をかけようとして喉の奥で飲み込んだ。呼んで、振り返ったとする。
 ――――何も変わらないのだ。残酷なほど、世界はレンに対して無反応を示す。エステルはレンの意図に気づかないだろう。
(気づいてよ)
 しかし、それを欲しているだなんて……レンは認めない。



   夕食はいつもより豪勢な、だけど釈然としない空気が流れる食卓となった。それぞれの部屋でいったん息をつくために戻る面々を見送ってから、ヨシュアは今日も自ら引き受けたいつもより多い食事の片づけを開始した。
 カシウスはこの不自然さの原因を当然知りたい筈だ。それを伝えるのは恐らくヨシュアが適任である。今のエステルは普段の快活さに刃こぼれが生じていて不安定だ。もちろん、レンにはまだ知らせていない……筈だ。
「エステルとレン、か」
 エステルとレンの出会いをヨシュアは直接知らない。ヨシュアがエステルから離れている間に結社の任務がてらレンから接触し、その後「お茶会」と称した王都での騒動で再会した。情報としてはその程度である。エステルはヨシュアと再会した当初からレンを気にかけていた。レンは愛らしい容貌であるし、悪戯をされても憎めないところは昔からあった。状況に適応する天才……その才能がそうさせる部分もあるのかもしれない。そして、結社にレンが入ったのはヨシュアの責任でもある。無論、あのまま「館」にいた方が幸せだったとは言わない。
「きっと泣くんだろうね、君は」
 その時が来たら、笑いながら別れようと言って微笑んだ愛しい女の子。本心ではなく願い、最低限の妥協でなく最高の強がり。少し前なら見つけられなかったであろう、彼女の姿。愛しさが強まれば強まるだけ、別れは心を引き裂く。
 それはこの家にいる誰もが知っている痛みだった。




 エステルにとって、いつも通りである筈の一日が始まった。少しずつ歯車がかみ合わなくなっていくような心地悪さが付きまとう。そして原因は自分にあることを知っていた。
 仕事をしていても、エステルの頭の中で手紙の件が頭をよぎった。手配魔獣の居場所を地図で確認しつつ、家でレンはどうしているだろうか、と気がそぞろになる。ふと、並んで立つヨシュアの顔をチラリと横目で見た。いつも通りの、落ち着いた表情。その奥にはエステルへの慈しみも込められているのだろう。昔から彼はそういう優しさで支えてくれた。
 視線がふと、かち合う。柔和に細められた瞳は初めて会った時よりずっと、ずっと深い光を映す。
「だいじょうぶ」
 何が、とは言わない。ゆっくりヨシュアは頷き、手にした地図に再び視線を落とした。エステルはさりげなくヨシュアの横顔を見つめる。
 甘やかされている自覚はあった。



 レンにとっていつも通りの朝だった。エステルとヨシュアはレンの朝食をテーブルに準備してからロレントに出かけ、カシウスはそれより早い時間に出かけたようだった。エステルがドアをノックする音には気づいていたが、起きあがるのが面倒で今、一人で食パンをかじっている。木々で羽を休める鳥たちのさえずり、コップを置く音しかしない。コップの中のミルクのさざ波が止まった時、レンの呼吸の音しかもう、しなくなり。
 レンは椅子が後ろにひっくり返りそうな勢いで立ち上がり、備え付けのメモ帳に手をのばした。そこにはエステルの大きな字で「あたためて食べてね! いってきます」と書いてある。それを破り取り、ぐしゃりと握りしめた。メモ帳の傍に置いてあるペンで、レンはまるで導力器が打ったような緻密な文字を書き殴った。
『ティータの家に二日程泊まる約束をしていたので行ってきます』
 本当は約束などしていない。しかし、これまでも約束をしても、していなくても行ったらティータは喜んで迎えてくれたし、気まぐれのように遊びに行くことも珍しいことではなかった。ここ数日の件はあるが、それほど不審な行動には見えないだろう。最低限の荷物をまとめ、レンは家を飛び出た。


 定期便に澄ました顔で乗り込み、座席に座ってから息を押し殺すような呼吸を繰り返す。ティータの家に行って、何が変わる訳でもない。今回のことを話すつもりは元より無いのだ。
(そうやって、また秘密が増えるのね)
 ロレントの景色を眼下に映し、レンはこつん、と窓に頭をもたれさせた。
 ツァイスに着く前に思考の整理をしておきたかった。せめて、友人であるティータには無駄な心配をかけたくはない。それは精いっぱいの気持ちだった。


 ツァイスの街並みは変わりなくて、それがレンの心を少し落ち着かせた。既にお馴染みである少女に、街の先々で逢う人たちが気さくに挨拶をする。
(大丈夫、いつも通りだから)
 ギルドや飲食店の前を横切り、更に進むと見えてくるラッセル家。つい最近行ったばかりだから驚くだろうが、こんな時に自身の気まぐれさは役に立つ。
 角を曲がり、ラッセル家の屋根が見えた。そして、微かに耳まで届くティータの嬉しさに溢れた声。
「アガットさん、いつもより早いですね!」
 レンはゆっくり踵を返す。そういえば、そうだった。先日泊まった時にも、話題に上がったではないか。今日はラッセル家にエステル達の先輩遊撃士であるアガット・クロスナーがやってくる日。レンに向かって、喜色満面でティータは今日という日の為に何を作ろうかと話していた。
 思わず、溜め息が漏れた。舌打ちをしなかっただけ、自分は以前より温和になった。そんなことを思いながら、どうしようかと途方に暮れる。温泉に一人で行くときっとティータまで話が届くだろう。あそこの女将はラッセル家と親交が深い。
「……歩いて帰ればいいわよね」
 突然思い立ち、何も得ることなくレンの散歩は終わろうとしていた。


 流石に時間はかかったが魔獣の脅威はレンに無く、ロレントまでの道は特に問題なく平坦なものだった。
 ブライト家の明かりは灯っていなかった。しかし、気配はあった。自分の家であるのに……いつもと違う雰囲気にレンの足が止まる。今、この場所は日溜まりでは無く、月の光が祝福する場所。深い森の揺らめきが、まるで忠告するかのようだった。踏み越えてはいけない、と。
 それでもレンは一歩、一歩、息を殺しながら近づいた。遅い時間はいつもそうやって出入りしているように、自室に近い木の太枝に細心の注意を払いながら跳び移る。
 やはり気配があった。二つが、一つに溶ける気配が。揺れ軋む音にレンの足が竦む。知らない声があった。しかし、知っているものもあった。
 知っている人の、知らない声、姿。一歩、更に近づけば熱を帯びた息づかいさえ聞こえてきそうで、心で叫んだ。目を閉じ、耳を塞ぎながら。今、ここにある空気にすら触れたくはない。何か衝動的に破壊したくて拳が震えた。
 クロスベルで再会した時から心得ていた筈だった。恋人同士である二人に気を利かせて時間を作ったことだってあった。そのことにエステルは気づかなかっただろうがヨシュアは苦笑しつつ受け入れていた。レンは、全て知り、認めていたのだ。
(何でこんなに……)
 とっさに口元を押さえつける。朝から何も食べていないのに、胃の奥底から沸き上がるもの。――吐きそうだ。
(こんなの……レンは何も知らない子どもじゃないのに)
 そう思った瞬間、前触れもなく涙が溢れた。今、エステルとヨシュアが交わしているものと、自分が知り、身に降りかかったものは行為こそ同じだが全く違うのだ。レンが知るそれは痛みしかなかった。言うならば玩具に向ける戯れの果て。その時、レンは人間でも女性でもなく、ただ『何もできない子ども』だった。泣き叫ぶしか最初は知らず、最後には涙すら枯れてただ、『それ』に慣れた。
 環境に適応する天才。結社にいる頃、レンが賞された言葉。今度は全身がガタガタ震え出す。慣れた結果、レンはただ一人生き残った。それが悲しいのか苦しいのか。巧く説明する言葉が見いだせない。大人を気取ってみても、かつて実際にあったことはレンを子どものまま時間を止めるものであったから。
 では、今ここに起きている何に対する感情なのか。
 暗闇の中、愛しい人を呼ぶ声は、陽光を思い出す笑顔から遠かった。甘やかな微熱をはらんだそれは、夜の密やかな儀式でしかあり得ないもの。
 温かい声、手。友達のようで姉のようで……時に、母のような笑顔が崩れてゆく。それが許せないのか。胸の中で悲鳴を噛み砕く。
 ――――そして、外に出るきっかけを与えた青年がレンの知っているものを奪っているのが許せないのか。 二人に自分の知らない顔がある、それ自体が許せないのか。頭の中であらゆるものが乱暴に混ざり、深淵のような色で塗りつぶしていく。顔を掻きむしりたい衝動を息を殺しながら押さえつけた。
 レンはその場から飛び降り、深い闇がざわめく森へと走った。


「ヨシュア……どうした、の?」
 栗色の髪をなでる指がぴたりと止まったので、エステルは僅かに顔を上げた。素肌のまま体を無防備に預ける恋人に、ヨシュアは「なんでもないよ」と耳元で囁くように答えた。
(気のせい……か)
 風が、窓をカタカタ鳴らしている。ヨシュアはエステルの肩に布団をかけた。少し肌寒くなってきたようだ。
 誘ったのはヨシュアの方だった。レンのことで不安と焦りが募り、表情が冴えないエステルをあやすように抱きしめた。それが解決にも解消にも繋がらないとお互い知っていたが、ただ情動に逆らわず静かに流れるような時間を求めあった。
 こうして触れあっていても、レンへの想い……焦燥は途切れることはないだろう。瞳が時折、不安げに遠くを見つめ揺れているから。
「悔しいのかな、僕は」
「……なに?」
「なんでもないよ」
 先ほどと同じように言って、瞼の上にキスを落とす。ここが世界で唯一彼女が安らげる場所でありますようにと、欲深い願いを込めて。


 レンは暗い森を転げ落ちる勢いで駆け抜けた。いつの間にか服のあちこち引き裂かれている。
(レンの知らない、エステルとヨシュア)
 息が切れて、汗が噴き出す。ちょうど近くにあった木の幹にもたれ掛かり、そのまま膝が崩れた。
  (気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い)
 また涙が冷たい頬を濡らした。嫌悪もあるのかもしれない。だが、それ以上にこの感情の名は。
「どうして、どうして……パテル=マテル、何でいないの……っ!」
 今はもう、身を屈ませ自分を抱きしめるしかない。エステルはヨシュアを、ヨシュアはエステルを抱きしめている。森の奥で目を泣き腫らしていようと、互いを求める二人の目にレンは映らないのだ。おこぼれのような情を向けられたとしても、そんな手で触れられたくない。
「パテル=マテル、何でいないの……!」
 レンを守るために自爆した『絶対的な親』の名を闇に向かって泣き叫ぶ。喉の奥がすり減りそうなほど、癇癪のように喚いて、喚いて……気が遠くなるまで。
 呼んだところで、誰も来ないのだと知っていた。



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