夜は明ける。何事も無かったように。
 あらかじめ準備していた服に着替え、目元の腫れが治ったのを確認してからレンが家に帰ったのは昼食が終わった後だった。
「ただいま」
 僅かに喉が痛いが許容範囲内。レンが姿を見せると、ちょうど帰っていたらしいエステルとヨシュアが「あれ?」という表情で迎えた。
「おかえりなさい。予定より早かったのね」
 書き置きには適当に二、三日とそういえば書いたのであった。
「ええ、ティータのご両親が帰ってくるっていうから水入らずを邪魔しちゃ悪いでしょう?」
「エリカさん達が……そっか」
 あっさり嘘は通った。
(エステルとヨシュアも二人きりの方が良かったでしょうね)
 レンの脳裏に昨夜の声が蘇る。姿は見てないのに、いざ二人が並んでいるのを目の当たりにすると視線を合わせられなくなる。子どもじみている、と心の中で自嘲した。
「……レン?」
 ヨシュアが訝しげにレンの顔を見やると反射的に顔を背けた。「しまった」と同時に思ったことを、その場にいた三人の誰もが気づかずにいた。
「レン、疲れたから部屋で寝るわ。おやすみなさいっ」
 忙しく階段を駆けあがるレンをエステルが「う、うん?」と見送る一方、ヨシュアは顎に手を据えて沈黙していた。
「……はぁ」
 思わず漏れた重
 い息は、誰のせいでもない。明らかに聞こえ始めた不協和音……打開する術をヨシュアも持ち得ていなかった。

 扉の前で、微かに聞こえてくる寝息を確認してエステルはノックしようとする手を止めた。疲れた様子だったのはエステルにも分かった。夕刻になっても起きてこないので心配して覗きに来たのだが、そっとしておこうと思った。 ……逃げなのかもしれない。エステルはきゅっと唇を噛む。
 レンが置いていった小さめの旅行バッグを開けて、いつも通り服を洗濯に出そうとして気がついたことがある。愛用しているドレスが至るところに泥がつき、生地が傷んでいたのだ。それは何を意味するのか。レンは何事も無かったように振る舞っていたから追求しない方が良いのかもしれない。そう思いかけて、拳で頭を小突く。
「……それは、あたしのことか……」
 逃げ続けるのは性分に合わない。紅い眼に、静かな決意が宿った時だった。
「エステル!」
 階下から声が聞こえ、エステルは物思いに沈んでいた顔を上げる。ぼんやり考えている間に、時間が過ぎたのかもしれない。そして、名前を呼んだ声はカシウスのものだった。
「早く帰るなら連絡くれてれば良かったのに」
 踵を返し、エステルはレンの部屋の前を後にした。
「――――どういうことなんだ?」
 一階に降りたエステルを待っていたのはカシウスと、そのやや後ろで何か言おうとして押し黙るヨシュアの姿。いつもと明らかに違う空気。なんだろう、と不審に思ってすぐ原因は見つかった。
 カシウスの手には、あの手紙と……更にもう一通、同じ封筒の手紙があった。そちらの内容はエステルも知らない。手紙から再び父の方へエステルは視線を戻した。痛いほど真剣な眼と相対することは、そういえば最近なかった。
「何故、話さなかった?」
 カシウスの口から出たのは、明らかな糾弾の言葉。言われるのは仕方ない。エステルにさえ、何故そうしてしまったのか分からなかったのだから。言葉が出てこず、エステルは口を閉ざした。
「エステル!」
 怒りが、声に滲んだ。面と向かって父の怒りを受けるのも久しい。エステルの体がビクリと揺れた。
「父さん……僕からも話すのが遅れてごめん。でも、エステルは」
「それとこれは別の話だ。エステル、何で隠したんだ?」
 カシウスの言葉が再びエステルの口を閉ざさせた。
「父さんにじゃない。レンに何故、話さなかったんだ?」
 聞かずともポストに入っていた見慣れない手紙を見つけ、息子に内容を訊ねた時、カシウスはここ数日の釈然としない空気に納得した。浅はかだと頭を抱えてしまう程度に、原因を掴んだのだった。
 手紙の送り主と息子の様子、届いていた手紙の内容。子ども達がクロスベルで世話になったというロイド・バニングスの申し訳なさげな「再確認」……それが何を示すものか再度ヨシュアに聞けば、掴んだ原因は明確なものへ変わった。
「エステル……!」
 カシウスにとって、『何故』という想いの方が強い。エステルはまるで傷つけられたような表情で立ち尽くしている。それがますます苛立ちを募らせた。
「父さん、エステルも話すつもりだったんだよ? まずはエステルの話を聞いて……エステル」
 見ていられなくなったヨシュアが口を挟んでも、エステルは微動もしない。まるで時間が一人だけ止まったかのように。
「何故、お前がそんなことをするんだ。確かに父さんはレンを家族に迎えることを歓迎した。しかしそれとこれは話が別だ。状況も大きく違うだろう」
 何も言わないエステルに痺れを切らし、カシウスは溜め息混じりに言った。紅い眼は娘に向けたまま。
「エステル」
「あたしは……あたしは! レンを家族にしようって決めたの。あんなに優しい家族がいるのならって、あたしだって考えた。でも、それでも家族としてレンを迎えておもいっきり抱きしめたいって思ったの!」
「それがどれほど傲慢でもか」
「傲慢でも、決めたの!」
 今度はエステルが父をキッと撥ねつけるような眼を向ける。
「あたしはあの子を独りぼっちにしないんだって。家族になって、レンが大人になるまでは見守ろうって」
「お前がレンを想う気持ちは分かった。しかしな、その何倍の年月……あの子が生まれた時からご両親はレンを想ってきたんだ。その重さが解かるか?」
 エステルは両の拳を下に垂らしたままきつく握りしめた。父の怒りの中でも冷静な物言いが逆にエステルを熱くさせる。
「解かってるわよ! どれほど傲慢なことか解ってる!」
「――――なら、お前は解かっていない」
 カシウスの声は静かだった。ヨシュアは二人を交互に目配せして固唾を飲む。
「俺はな、エステル……もし、お前が同じような形で突然いなくなり、僅かでも生きている可能性があるというのなら世界中意地でも廻って探すだろう」
 先ほどの糾弾の色は薄れ、まるで諭すような声音だった。エステルはゆっくり、視線を落とす。拳は握られたままだった。
「お前に解からないのか? いや、解からない筈がないんだ。ヨシュアがいなくなった時、お前は傷つかなかったのか? レナを失った痛みをお前は知っているのに、解からないのか?」
 ひゅっと、喉が鳴ったように錯覚した。何処かで風が吹いている。ロレントの豊かな木々の隙間を。それは徐々に耳鳴りのようにエステルには感じられた。
 掌が痛い。エステルが、顔を上げる。
「レンはでも、ずっと残酷な場所で取り残されていた! レンを助けたのはヨシュア達だったじゃない! 待っても誰も迎えに来なかった……ずっと、独りで耐えてきたのよ……。待ってても、誰も来ない! だったらあたしがどんな時も抱きしめに行く!」
 苛烈な炎をぶつけるように、吐き出された言葉。ヨシュアは何か言おうとして、口を閉ざす。
「――――お前は本当にレンの為を想い、そう願っているのか?」
 カシウスの返答は簡潔だった。しかし、何よりも勝るナイフのようにエステルの胸を直撃した。
「想ってる、想ってるから……!」
「お前はレンを通して自分を抱きしめてるんだ。レンはお前じゃない。お前と同じじゃないんだ」
 カシウスの言っていることが、咄嗟に解からなかった。エステルが呆けたように父の表情を改めて窺う。滲んでいたのは苦渋の色だった。
「エステル……それは、俺に言っているんだろう?」
 エステルの瞳がゆっくり見開く。また、喉がひゅっと音を立てたような気がした。それは風を切るような、とても馴染みあるものに似ていた。



 棒術具の、宙を踊る音が好きだった。意識が研ぎ澄まされる。背筋が伸びて、空気がピンと張りつめた。
 まだ習ったばかりの棒術具は手首に負担を要する。それでも、また。部屋の中で、棒術具を振りかざす。途切れないように、何度も。
 それが止まれば、自分の呼吸しか聞こえなくなるから……。嫌でも不安が押し寄せる。
 今日も、誰も帰ってこなかった。

「エステル?」
 気遣わしげなヨシュアの声に、黙って突っ立っていたことに気付いた。カシウスとヨシュアの視線がエステルに集中していた。
「エステル!」
 今度はカシウスの促すような声。エステルはカシウスを凝視する。



――――ここが、自分の家だから。そう言って、優しい手を全て振り切って帰った。
(あたしにはちゃんと家があるもん)
 ドアを叩き破る勢いで開け、真っ直ぐ向かうのは自室ではなく、一階。本と、香水の混ざったような匂いの両親の部屋。そこにあるベッドにエステルは潜り込んだ。誰に追いかけられている訳でもない。もう、哀しいことは……帝国との戦争は終わったのだと大人たちが話していたから大丈夫だ。
 柔らかい布団をおもいきり被りなおすと、自分の匂いではないのにとても落ち着いた。
 それも、いつか薄れるのだろうか。
 不意に、背筋に冷水が垂れ流れた。ここは確かに帰る場所。自分の家。だけど誰もいない。誰も迎えてはくれない。 もしかしたら、誰も帰ってこない……?
(おかえりって、言うんだ)
 歯をガチガチ鳴らしながら噛みしめる。布団に残る匂いしか、もう無かった。
(待つから。ずっと待ってるから……)


    

 自然とそれらは溢れて来た。エステルの中で、まるで走馬灯のように駆け巡る。
「……じゃない……」
 歯を噛みしめて押し留めてきたものも、同時に。
「世界中意地でも廻って? あたしはずっと此処にいた! でも来なかったじゃない! 父さんこそ解かってない!!」
 震えそうになるのを乱暴な感情で抑えつけた。
「――――エステル」
 悲痛に、重く。カシウスは娘の名前を呼んだ。
 ……その時。
「あまりエステルをいじめないでよ、カシウス」
 階段からゆっくり下りてきたのはレンだった。ヨシュアが気まずそうな表情で「レン」と声をかけると、澄ました顔で「なぁに」と返す。
 そして、カシウスとエステルの間まで悠然と歩き、止まった。
「……レン」
「いいのよエステル」
 あやす様にレンは微笑んだ。
「家にいてもエステルとヨシュアは仕事でいない。カシウスだってそう。同じじゃない」
 一息で言い切った。エステルが口を開く前にレンが口火を切る。
「じゃあ三人ともずっとレンがいる間は家にいて。レンをずっと抱きしめる? それならエステルとヨシュアは私がいる間は触れ合わないで。レンを抱きしめていて」
 少女の可憐な微笑が急激に崩れた。春の穏やかさから、氷の冷徹なものへと。
「できないんでしょ! レンの為にそんなこと出来る筈がないもの! 結局レンは独りなんだ!」
「レンッ!」
 咄嗟に伸ばされた手を払いのけてレンは家の外に飛び出した。追いかけようとするエステルに、カシウスが「待て!」と怒鳴った。
「行って、どうする? あの子の願いを叶えられるのか? お前が本当のことを認めない限り絶対あの子はお前を認めないぞ」
「本当のことって何? あたしはっ!」
 甲高い音が部屋に響いた。
 エステルは眼を瞬きしながら、自分の頬を押さえる。しびれる様に痛い。それを与えた人物……ヨシュアに父娘の視線が集まる。
「エステル……やめよう」
 ヨシュアの声はいつものように優しかった。それが張りつめたものを溶解させ、涙が遂に流れ出した。
「何で……レンは家族でしょう? ……あたしは、絶対あの子を探す!」
 涙を見せないように二人に背を向け、エステルも家の外に出る。部屋に残されたのはヨシュアとカシウスだけになった。
「……ヨシュア」
 息子の名を呼ぶカシウスの顔には疲れと、普段は感じさせない「老い」が影を落としていた。
「エステルと共に生きる……彼女が安心していられる場所を与えたい。そう誓ったんだ」
 双方の琥珀には決意が宿っていた。
「父さんだけに任せるつもりはないから」
「……頼んだぞ」
 しっかり頷き、微笑むとヨシュアも家の外に走り出る。
 ヨシュアの気配が遠ざかり、カシウスはゆっくり定位置の椅子に腰をおろした。
「――――来なかった、か」





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