森の中を、周囲を見渡しながら歩く。見慣れた場所でも既に夜が深まる時間。視野がかなり限られていた。枝を踏みしめる感触や若葉の匂いが、少しずつエステルの頭をクリアにしていった。
まだ、打たれた頬が微かに痛む。
(そういえば……ヨシュアにこんなことされるの、初めてかも)
逆パターンはこれまであった。エステルがカシウスにお仕置きと言ってげんこつを喰らったことは何度もある。ヨシュアは基本的に優等生で、カシウスでさえ手をあげたのは一度きり。エステルの前からいなくなり、帰って来た時だけだろう。
エステルに注意や小言はいっても、ヨシュアからエステルを叩くことは一切無かったのだ。
「……呆れたかな」
頬の痛みよりも、胸の奥から沁みるように痛む。エステルが言い返した時の父の表情を思い出すと、更にそれは疼きだした。
意図的に、傷つけた。そのことに後から自己嫌悪と哀しさが募っていく。噛み殺し飲みこんできた筈であろうものを、形振り構わず父に叩きつけた。それが、痛くて。
そしてレンの言葉。何も返す言葉が無かった。レンを独りにさせていること、ヨシュアと触れあうことを拒否すること。エステルの中で二人の存在が渦巻く。どちらも決して交わらない別の愛情でエステルは結ばれていると信じていた。だが、それをレンは拒絶した。
(なら、あたしはレンの為にヨシュアと……)
考えられなかった。エステルもレンと同じように絶対的な腕を求め、ヨシュアがそれに応えた。抱きしめられる安堵を覚えてしまった以上、手放すなど出来はしないのだ。
「パテル=マテル……ッ」
微かに声が聞こえた。エステルは意識を研ぎ澄ませ、少女の居場所を注意深く探った。思い返せば、レンとは探したり見つけたりの連続である。
「パテル=マテル……ッ どう、してッ」
エステルは息を飲む。嗚咽混じりに、かつてレンと共に在った巨大で圧倒的な存在を呼び続けるレン。
『絶対に認めないぞ』
カシウスの言葉が脳裏に甦る。今、レンが求めているのはエステルでもヘイワ―ス夫妻でもなく、既に存在しないパテル=マテルだった。闇に向かって呼び続ける。
「……パテル、マテル……」
レンが必要としているもの。そして、エステル達にレンを託してくれた。最後まで守ってくれた……。
「あたしは……」
エステルの言葉が聞こえたのか、レンの嗚咽が止んだ。このまま逃げられてしまう前に、今度は先にエステルが呼びとめた。
「レン! 聞いて……あたしは、謝らなくちゃいけないの」
たくさん言わなければいけないことがあった。手紙が届いたこと、それを隠したこと。先ほどのレンの言葉がその通りであること。
それ以前に……。
「あたしね、レンを独りにしたくなかった。それなのにね……パテル=マテルがいなくなった時、どこか安心したの。これでレンは解放される、あたし達の家族にちゃんとなれるって」
パテル=マテルは最後までレンの為に動いていた。身を呈して守り切ったのだ。その姿は、エステルが知る母の姿そのものであったのに。
「――――亡くす痛みは、あたしだって知ってる筈なのに……」
父が言っていたこと。レンを通して自分を抱きしめている、という言葉。それが今になって胸に響きわたる。
「パテル=マテルはレンのこと、ずっと傍で守ってた。お母さんみたいに優しく……。最後までレンのことを真っ先に考えてたんだ。でも、あたしはっ」
濁りきった感情を今、手に取る。きっと耐えてきたものと同じように眼を伏せてきた。目頭がじんと熱くなった。
「お母さんやパテル=マテルみたいにレンを想ってなかった。そう思いこんでたし出来ると思ってたのに……違うんだね」
語尾は濡れて、小さく消えた。
「……エステル」
エステルの左側の前方から、ゆっくり眼元を赤く腫らしたレンが現れた。そしてエステルの傍らにまで歩み、背中に手を添える。エステルはその場で静かに涙を流していた。ぽた、ぽたと地面に絶えず染み入っていく。
「あたしは、卑怯だ。パテル=マテルとも、ヘイワ―スさんとも正面から向かい合わなきゃいけなかったのに……逃げた。レンのこと……。パテル=マテルとは、もう逢えない。だけど、ヘイワ―スさんとなら、まだ向き合える」
「エステル」
エステルの正面にレンは膝をついた。エステルは笑っていた。初めて会った時と同じ温もりだけど、違うものもきっとある。
二人ともが、当時とは変わっていた。
「あたしにはあの人たちの気持ちは父さんが言うように解かってなかった。でもね、もしお母さんが生きていたら……おもいきり抱きしめてほしいって気持ちは解かる。だから」
振り切るように顔を上げるエステル。
「一緒に会いに行こう。レンにとって幸せな場所をちゃんと選べるように。隠してごめんなさい。あの手紙の内容はね、ご両親がレンに会いたいって話なの」
もうそんなこと知っている、とか何故隠したのかと、当たり散らすつもりだった。手紙の内容は確かにレンを揺さぶるものだった。しかし、眼の前の自分を救ってくれたエステルの、笑顔のまま止まらない涙をどうにかしたい方が今は勝った。夜目でも頬が濡れているのが分かる。
「……特別になりたかったの、レンは」
ぽつり、と。
「誰かの、エステルの特別に。でもエステルの特別な人は、ヨシュアなのよね?」
「――――レン」
「エステル、正直に言って」
「うん。ヨシュアは、あたしの特別なひと」
手を繋ぐのは二人でも叶うのに、人を胸いっぱいに抱きしめると、たった一人しか選べない。つまりそういうことなんだと、レンは静かに思う。
「私にも解かったことがあるのエステル。大人でも、子どもでも……関係ない。寂しいのは、怖い。だから、エステル。おめでとう」
「レン……?」
笑顔で別れようと言ったのはエステルだった。そして、泣きながらでも笑えることを、当時のレンは知らなかった。
「……うん、祈ってる。レンにも、特別な人が現れますようにって……レンの幸せを、一番に祈ってる……!」
堪らずエステルは腕を伸ばし、レンを正面から抱き寄せた。
その温もりを、受け止める。レンはゆっくり目を瞑る。ふんわり心地よい匂い。レンが此処にいたいと願った場所だった。
どのぐらい、そうしていたのだろう。遠くから、二人とは別の声が聞こえてきた。導力灯の光の筋が、森の暗闇に白いラインを引く。
「見つけた、二人とも」
「ヨシュア」
ほっとしたようにヨシュアが順番に二人の顔を照らした。
「遅いわよ、ヨシュア。ほら、エステル連れてって」
「レ、レン?」
エステルから体を放し、レンは拗ねた口調でヨシュアを指さす。
「エステルの頬っぺた、これってヨシュアなんでしょ? ちゃんと責任持ってエスコートして帰ってね」
エステルは思い出したように叩かれた頬を撫でる。自分では分からないが赤くなっているのだろうか。痛みはいつの間にか消えていた。
立ち上がるレンに「レン?」とヨシュアが声をかける。
「お腹すいちゃった。先に帰るわね」
「……うん、分かった。父さんにもちゃんと連れて帰るって伝えといて」
「ええ」
あの、独り泣け叫んだ夜とも、館で心を殺した日々とも違う。確かにレンは変わっていた。
(ヨシュア、お願いね)
エステルがレンを幸せにしたいと願ったように、レンも今、エステルの幸せを願っている。お互いが想いあっているのに、その相手は違ったけれど。
自分ではどうにもならない涙を、ヨシュアが止めてくれるならそれでいいと思った。
二人だけが静寂の森の中に残された。ヨシュアは導力灯を持っていない右の掌で、エステルの頬にそっと触れた。
「腫れてなくて良かった……ごめ」
「何で謝るの」
エステルが苦笑する。
「ヨシュアはあたしのこと、止めてくれたんじゃない。今までに何度かあたしだってヨシュア殴ってるし」
「そうだけど……」
灯りが地面に素っ気ない音を立て落ちた。ヨシュアはエステルの肩に腕をまわし引き寄せる。
「あまり経験したくないな」
「あたしも。……あたしより、ヨシュアの方が痛そうな顔してるんだもん。ごめんね」
先ほどレンと交わした会話を思い出す。
「ありがとう、ヨシュアはあたしの特別なひとだから……」
心音が聞こえるぐらいの距離からお互いの顔を見合わせる。そこで、ヨシュアはエステルの栗毛を撫でながら話しかけた。
「寂しいって言って、いいんだよ」
「え」
柔和な笑みを浮かべながらヨシュアは続けた。
「僕がこうして抱きしめていても、埋まらないものはあるんだろう? 結構前に言ったよね。エステルがいなきゃ生きてく自信あまり無いって」
「ヨシュア!」
エステルがキッと声を上げる。しかし、ヨシュアの表情は変わらなかった。
「あれは今でも本気。それと同じぐらい、僕たちだけで生きて行くには世界は広すぎるんだ」
それは本当に当たり前のことだった。互いを見つめあうだけの世界もいいだろう。でも、きっと物足りなくなる。肌寒い世界になるだろう。
「僕にとってのエステル。君にとってのレン。どちらも寄せる想いはかけがえの無いものな筈だよ」
「……うん、そうだね」
「だからエステル。寂しいって言っていいんだよ。僕にも、父さんにも」
真摯な眼差しを受け、エステルの瞳が揺らめいた。
ヨシュアはエステルの足元に落ちた灯りを拾い上げた。樹木の香り漂う土を手で払う。
「さぁ、帰ろうか」
差し伸べられた手を、エステルは迷いなく握り返した。
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