森を抜けると、軒先でレンが立っていた。二人が並んで歩いてくるのに気づき、「おかえりなさい」と出迎える。
「ただいま……」
 少しはにかんでエステルとヨシュアは答えた。
 そして、エステルが家の方へ視線を移す。灯りはまだついていた。カシウスは中で起きているようだった。エステルの表情がわずかに曇る。外に飛び出す前のやり取りが脳裏を掠めた。
「カシウスなら自分の部屋で休んで待ってるって言ってたわよ」
「そう、なんだ……」
 声を沈ませるエステルに、ヨシュアとレンが視線を交錯させる。
「じゃあ、エステル。行って、ちゃんと話してきなよ」
「そうね、レンとヨシュアはここでお星様を見てるから」
 二人の言葉に一瞬不安げな顔を見せてから、しっかり頷く。
「……うん、行ってくる」
 胸に一度手を当て、ゆっくり深呼吸。そして、一歩ずつ踏み出した。そんな背中をヨシュアとレンは見送る。頼りない手つきでドアを開け家に入るのを確認してから、ヨシュアは空を見上げた。
「……気づかなかった。こんなに星が見えてたんだ」
「レンも、今気づいたの」
 満天の星屑は、日中の太陽とは違う幻想的な光で家を照らしていた。




 カシウスの部屋の前で、再び深呼吸。父と向き合うのに、これほど緊張したことは一度もなかった。ふと、不安がエステルの心を掴む。これまでと同じように、笑って家族で過ごせるのだろうか。明日になれば何事もなかったように過ごすのだろうか、または……。
(同じでいいはず無い)
 変わったものは戻せない。エステルは覚悟を決めてドアをノックする。
「……あれ?」
 反応がない。もしかして既に寝てしまったのかとエステルがそろりと開くと、部屋には誰もいなかった。机の上には読みかけらしい本が無造作に置かれていた。
「――――父さん……?」
 ぞくりと先ほどの不安が今度は恐怖となってエステルを鷲掴みした。
(父さんがいない……いなく、なった……?)
 心臓の音がうるさい。この感覚は前にもあった。目の前から誰かがいなくなること。忽然と、奪われる当たり前の風景……。
(そうだ、さっきレンが父さんは中で待ってるって言ってたじゃない)
 不吉な予感を払拭するように頭をぶんぶん振ってから、気を取り直してエステルはひとまず部屋を出た。カシウスの部屋にいないのなら、と二階へ駆け上る。カタン、と控えめな音が聞こえた。エステルはその音がした方……ベランダへ向かった。


 カシウスは柵にもたれ掛かり、遠くを見つめるようだった。どこか近寄りがたい雰囲気を感じたが、意を決した。
「父さん……」
「帰ってきたか」
 とっくに気づいていたのだろうが、カシウスはそう言った。
「隣行っていい?」
「何で許可がいるんだ」
 やんわり苦笑を浮かべるカシウスに、「それもそうだね」とエステルは頷いた。父と娘は並んで、柵にだらりと手をかけ星空を仰ぐ。しばし、ゆったりと時が二人の間に流れた。先にそれを断ち切ったのはエステルだった。
「父さん、ごめんなさい」
「……エステル」
 勢いよく頭を下げる娘に、カシウスは眉を顰める。
「謝らなくていい。実際、俺は肝心な時に間に合わなかった。それに、一人で長い時間を過ごさせていたのも事実だ」
「でもそれは、父さんのせいじゃない。そうするしか無かったから、そうしたんでしょ……?」
 エステルは顔を歪ませながら苦しげに、一度止まっていた涙がまた溢れそうになるのを堪えた。
「父さんはいつも気にしてた。それを分かっていて、あたしは責めたの。父さんを、傷つけようとした……傷つける言葉をわざと、使った」
「責めていいんだ。その権利がお前にはある。お前にレンへの責任を語りながら、自分は父としての責任を果たせていなかったんだ」
「違うよ! 権利とか、責任とか、そんなんじゃない!」
 ――――悲痛な声だった。
「エステル」
 俯くエステルの頭にそっとカシウスは触れた。そういえば、しばらくこんな風に接したことは無かったと思い当たる。
「あのね、ここからよく、一人で空を見てたの。父さんを待ってた時」
 ゆっくりと、エステルが語り出す。
「部屋にじっとこもっているのが悲しくなって、空が見えるベランダにいたら、空がまるで降りかかってくるように大きくて。余計に、つらくなった」
 星たちの中でも一際大きな存在感を放つ月に向かって、手を伸ばす。掌と月が重なったところでエステルはぎゅっと拳を握った。
「――――エステル?」
「掴もうとしてたんじゃない……返してって叫びたかった。空の……そんな、女神様がいるような遠い場所じゃなくて、あたし達が待ってるお母さんを返してほしくて」
 重なっていた拳を下ろし、エステルはカシウスの眼を捉える。
「あたしね、父さんをあの日からずっと守りたかった。それと同じぐらい……っ」
 語尾が震えた。肩も、心も、全て。
「同じくらい言いたくても言えなかった。寂しいって……いつも。待ってるのに帰ってこなかったらどうしようって!」
「父さんが寂しがっていたから、エステルもずっと我慢してくれてたんだな……頑張ってくれたんだな……過去に囚われそうな背中をずっとお前は押してくれた。ありがとう、エステル」
「うん……っ」
 カシウスは幼い頃のように泣きじゃくる娘の背中をあやすようにぽんぽんと叩いた。
 ――――支えること……それが父娘を結びつけ、今に至らせたのだろう。それは強靱な強さを二人にもたらした。同時に、見えない孤独も深めることになった。掌の温もりが、少しずつ溝に流れ込み、影の冷たさを露わにしていく。
 もう、耐えられない。抱えてきた孤独は遂に暴かれた。この夜の闇と星の輝きの元で。支えあった手を、今度は抱きしめ癒す為に。二人の父娘を祝福するかのように星たちは煌めいていた。



  「エステルとカシウスは大丈夫そうね。エステル、あんなに泣いちゃってる。まだまだ子どもなんだから」
 ベランダにいる二人を、遠目でレンとヨシュアは見守っていた。何となくの雰囲気しか伝わらないが、きっと良い方向へ進んだのだろう。
「寂しさに、大人も子どもも関係ないさ。……レンは、どうする?」
 ヨシュアの問いかけに、レンはすっきりした表情で微笑む。
「…………自分で決める為に、会いに行く。エステルと一緒に。ヨシュアも来てくれるかしら?」
「ああ、もちろんだよ」
「それは、家族だからなの?」
 自分で頼んでおいてこの質問はおかしいかもしれない。しかし聞きたくなった。対するヨシュアは明快に笑った。
「君のことを大切に想うのはエステルの専売特許じゃない。……それだけさ」
「……それだけで、いいのよね」
――――否、それだけが、欲しかった。レンは胸に手を当てる。自分に注がれるものが、ちゃんとそこにあることを確かめる為に。


 
 

 決断してからのエステルは行動が早かった。まず、ロイドと連絡を取りヘイワース家とレンの再会をセッティングした。現場に同行するのはエステルとヨシュア。特務支援課も立ち会いの中、行われた。
 全てを包み隠さず話すのではなく徐々に伝えていこう、というロイドの意見にエステルも同意した。さらけ出すには勇気も、時間だって必要になる。まして、両親が知らない間に起きたレンにまつわる事象は凄惨すぎた。最終的にはレンの決断次第となった。
 世の中には知らない方が幸せなことがある。それもまた事実であることをその場にいる全員が知っていた。
 ついに再会を果たしたヘイワース夫人に抱きしめられ、ぎこちないながらもおずおずと背中に手を伸ばすレンの姿に、エステルは心から想った。
(おめでとう……レン)
 もう、誰かを待つ不安も、寂しさで震える夜も、やってこない。
(あなたの幸せを願う人が、ちゃんといる。あたしも……)
 レンがどの場所を選ぶのか、現時点では分からない。それでも晴れやかな光が差すような心地だった。
 最初の立ち会いは、無事に終了した。レンを一旦ロイドたちに託し、エステルとヨシュアは帰省することになった。これから少しずつ共有する時間を積み重ねていく、記念すべき始まりの日。
 空は、どこまでも蒼く快晴だった。




   レンがクロスベルにてしばらく時間を過ごす間、ブライト家は再び三人の生活に戻ることになった。
「戻ったというのも変かな。もう、レンはあたし達の中にいたんだもん」
「そうだね」
 レンの為の食器は、今は棚の中にしまったまま。部屋は、いつでも気持ちよく使えるようにしておいた。日常の欠片が一つ、失われたことが何気ない生活の中でじんわり沁みてくる。
「また会えるよ」
「うん……それにレンにとって大切な家族なら、あたしにとっても大切な人たちだから」
 責められるのが当然だと思っていた。ヘイワース夫妻に、レンを連れて帰った経緯を簡単ながら説明したら、逆に頭を下げられてしまった。
「その時、この子にとってそれが救いだったのでしょう」
 不幸が重なりあい、偶然が引き寄せ、最後には彼女の意志が決定するだろう。どんな結論になろうとも、祝福しようとエステルは思った。
「ところで……父さんとも、ちゃんと話せた?」
 少し気にかかっていたので率直にヨシュアは聞いた。
「うん。色々とね。お陰様でスッキリ!」
 内容は正直気になるが、それよりも久しぶりに見る眩しさだった。やはり、笑顔が似合う……そんなことを思いながら、ヨシュアはエステルの手を取った。
「僕は、君にさよならを与えないよ。……共にいる、君と」
「……っ、不意打ちだなぁ」
 紅くなる顔も、涙ぐむ瞳も、なんだか悔しくて見せたくない。おもいきり強くヨシュアに抱きついて、目を閉じた。

 他愛のない言葉を交わすのに、何年要したのだろう。
 一つ分かることは、エステルとカシウス。二人だけではきっと叶わなかったのかもしれないこと。







「ねぇ、父さんにとって、お母さんってどんな存在?」
「…………空、かな」
「会いたい?」
「……ま、そう思うこともあるさ」
「そっか」
 先ほどまで抱きしめあっていた手を、今は繋いでいた。それこそが互いを引き留め続けてきたものだ。
「でも、まだあたし、父さんとも一緒に生きていきたい」
「甘えただな。ヨシュアに甘えるんじゃなかったのか?」
 滲んだのは苦笑。
「おかえりなさいって、言わせて」
「じゃあ、ただいまと答えるさ」

 そう言って、手を 放した。




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