ロレント空港まで、あと10分といったところか。 アナウンスが流れ、カシウスは荷物を台から下ろす。
 窓から見える景色は、カシウスにとって見慣れたものである。今はそれがカシウスの憂鬱さを増加させた。
 カシウス=ブライトは悩んでいた。
 忙しい時期でも子ども達からの手紙に帰郷するとあれば、「最初からそうしろ」と睨まれる勤勉さで休みを勝ち取る。 今回も、子どもの帰宅に合わせての休暇であった。
 しかし帰郷を知らせる手紙はいつもと様子が違った。 それは、開封前からエステル、そしてヨシュアの連名では無い時点で予感があった。
(子ども……か。俺にとってはいつまで経っても子どもではあるが)
 エステルが産まれ、レナを失い、ヨシュアを家族として迎えてから年月は流れた。 親子という関係はいつまで経っても変わらないが、娘と息子の関係は徐々に形を変えていった。 カシウスは複雑な心境もありつつ、基本的に見守りの姿勢を保って今に至る。
 2人で旅をする、と最初に言い出した時は「遂に来た」というのが本音だった。
 ――――そして、今回の手紙の内容についてだ。

『突然でごめんなさい。
3日後ぐらいにそっちに帰るね、1人で。
ヨシュアと一緒にいられなくなりました。
でも、家族であるのは変わりないから。本当にごめんなさい』

(随分、堪えているようだな)
 文面から、2人の間に生じた亀裂を感じ取りカシウスは重いため息を吐く。
 家族であることに変わりがないから……という文面は娘らしいとも思う。 父への気遣い、ヨシュアとの絆……そのどちらへの想いも含めて書かれた精いっぱいのラインなのだろう、きっと。
 正直、落胆はした。しかし驚きはなかった。 2人の間にもう波乱の1つや2つ、まだ控えているだろうと思っていたからだ。
 エステルは大切なレナの忘れ形見であり、愛する娘だった。そしてヨシュアも自分には出来過ぎた、誇れる息子だった。
どちらかを選び取るという考えはカシウスの中には存在しない。  ただ、失いたくないと切実に思うだけで……。



 いつも不在が多く、静かなブライト家から人の気配が感じられる。
 先にエステルが帰ってきていることは、ロレントを歩けば口ぐちに皆がカシウスに知らせてくれたので分かっていた。 それよりも、どんな顔で再会すべきか……柄にもなくカシウスは選択に窮した。
 我が家の前に立つ。そして「ただいま」と言おうとすると、先に扉が開かれた。
「父さん、おかえりなさい………ただいま」
「エステル……ただいま」
 ふんわり、エステルは笑ってカシウスを出迎える。 そろそろ帰る頃合いと思ってか、エステルが愛用していたカップとカシウスのカップがテーブルの上に用意されていた。 その光景は今が異常な事態であるとカシウスに認識させるに十分なものだった。 カシウスの微妙な視線を感じてか、エステルはぎこちなく笑う。
「こういうのって出戻りって言うのかな、ちゃんと話すから」
「ああ、……今、ヨシュアは何処にいるんだ?」
 今のエステルに酷な質問かもしれないが、知る権利はあるだろう。 定位置である席に座りながら単刀直入に聞くと、エステルは笑顔のままで答えた。
「帝国。まだ終わってないなら、依頼の途中だと思う」
「終わって無い?」
「…………」
 そこでエステルが押し黙る。 カシウス、そして自分のカップに湯を注ぎながら、眼は何処か遠くを見つめているようだった。 「……エステル?」
「遊撃士として失格だな、あたし。依頼を途中で投げてきちゃった……」
 ポットを戻し、エステルは椅子に座り父親と向き合った。
 エステルの言葉にカシウスは僅かに眉を顰めた。 遊撃士の仕事に生き甲斐を感じ、今ではベテランとして各国で活動していることはエステルやヨシュアだけでなく、 方々から聴こえてくる声で知っている。 依頼を投げるなど、娘らしくない行動だ。エステルが一番嫌う事だろう、それは。
「ヨシュアを依頼の途中で置いてきたの。 でもね、ヨシュアのことは今でも家族だと思ってるし家に帰ったら今までと変わりなく……その、弟として接して一緒に生活できるから!」
「お前がそんな器用にできるのか? ヨシュアが息苦しくなるだけだろう」
 コーヒーを一口含んでから淡々と言い放つ父の言葉に、エステルはカップに添えていた手に力を僅かに込める。
「―――そうだよね…………」
 エステルの顔に浮かんだのは、泣き笑いの表情だった。 カシウスはそれをじっと幾ばくか見つめてから、本日何度目か解らないため息をついた。
「此方で遊撃士として依頼を受けるつもりか、そんな状態で」
「…………動いていたい………、正直に言うと」
「そんな所だろうな。今の状態のお前だとシェラザード達の足を引っ張るだけじゃないか?」
 椅子がガタンと荒っぽい悲鳴を上げる。エステルは立ちあがり、カシウスを真っ向から見つめ返した。
「絶対、そんなことにならないようにする!! あたし、ちゃんとやるから!!!」
「……まぁ、遊撃士協会も人手不足は深刻なようだしな、止めはしない。しかしプロとして自覚を持て、いいな?」
 カシウスの厳しい眼差しにエステルの背筋に汗が伝う。父の言葉は尤もだった。 そして、今更そのような事を言われる現状に苛立ちすら感じた。
(あたしらしくない……ずっと、ずっと……全然こんなの……)
 そう思うと、胸の奥に突き刺さる様な痛みを覚える。 依頼を投げてしまったこと、何が一番辛かったのか、痛かったのか。何故ヨシュアと一緒にいられないのか。
 沢山のことが一気にエステルを責め立てて、押し寄せる波にエステルは半ば呆然とした。
 はっと気がつくと、肩に置かれた掌の温もりを感じた。 いつの間にか傍らで身体を支えていたカシウスの眼に宿るのは我が子への心配だけだ。
 ずっと昔、エステルは父のこんな眼を見たことがある。遠い遠い、痛みを伴いながらも忘れ難い記憶。 それは忘れてはいけないものだった。エステルがずっと抱えてきた大切なものなのだから。
「……ごめん、なさい………っ」
 カシウスの胸に飛び込みエステルは縋りついた。こんな風に父に抱きつくのはいつ以来だったかエステルにも分からない。 カシウスはしばらく黙ってエステルの頭を撫でていたが、ぽつんと言葉を零した。
「エステル……何故、謝ってるか解っているのか?」
「……え……?」
 カシウスは僅かに苦笑したようだった。一瞬呆けた表情を浮かべエステルは父の顔を見上げる。 まじまじと観察するように父の表情を注視しても、エステルにその言葉の意味は解らなかった。
 ただ、カシウスは再びエステルの頭を愛おしげに撫でた。 自分と同じ髪の色だが、手触りはやはり娘の方が柔らかい。 お転婆で虫を追いかけては手足に傷を作っていた少女は、いつの間にか大人になっていた。それを喜ばしいと思う。
 そして、淋しいと思う………子どもの前ではただの親だ。しかも、相当愚かな自覚はある。
「何が一番お前にとって痛かったのか……辛かったか解るか?」
「いっぱいあり過ぎて解らない……」
「まぁ、アレだ……今日は消化が悪くなる話は置いとくか」
 カシウスの言葉はエステルにとって意外なものだった。 エステルの表情を読み取ってカシウスは苦笑した。
「父さんにも逃げたくなる時があるんだぞ、エステル? だから俺はその事でお前を責められんさ」
「――――うん……明日、ちゃんと話すから」
 気遣いと、本音の入り混じった言葉だったのだろう。
 エステルはそれから他愛のない話を始めた。……何気ない、日常の話を。
 そして、それこそが自分にとって異質なものであると感じながら。 大切な……少年から今では青年となった彼の名を口にしない会話。言葉に発すると、再び痛みで胸が引き裂かれるのを恐れてしまう。
 それを、カシウスは時々相槌を打ちながら聞いていた。エステルが笑いながら話す姿を、じっと見つめて……。




 お互い疲れが溜まっているだとか理由をつけて、いつもより早い就寝時間。
 ブライト家の灯りが消え、が再び夜の闇に溶ける。とても、静かな夜だった。
 久しぶりに自分のベッドに身体を仰向けに寝かせ、エステルは天井をじっと見つめた。 下の階では父がきっと仕事の書類でも見ているのだろうか、まだ起きている気配がする。 いつも自分たちが帰るタイミングで無理に休暇を取っていることは勿論知っていた。 だからこそ、元気な姿で再会したかったのだ……それなのに。
「ヨシュアのばか、ばか、ばか………大きらい………っ」
 腕でエステルは顔を隠す。この部屋にエステルしかいない事は百も承知だ。
 しかし、今の姿をベッドサイドから、そしていつだって自分を見守ってくれている大切な人に見せたくはなかった。
 こんな、みっともない……弱い自分だけは絶対に。

『何が一番お前にとって痛かったのか……辛かったか解るか?』
 父の言葉に、エステルが答えられるのはこれだけだった。
「順番なんて分かんないよ、全部痛いよ、助けて……」
 歯を噛みしめて耐えていたのに、ついに泣いてしまった。顔全体を腕で覆い隠しながら 静かに、 静かに……。




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