ただの高校生で、親の庇護の元にあって、17歳のガキなんだって今更だけど思い知る。
バスケ部で精一杯頑張って、勉強は好きではないけど留年する訳にはいかないから程々に頑張る。
戻ってきたのは日常なのか、非日常なのか……今の自分には解らない。
「あの……新堂君?」
「……? なに?」
中間テストが近くなって、あまり足を運ぶことのない図書室に古語辞書を借りに行った時だった。
渡した貸し出しカードを手に取り、図書委員の女子が困惑した表情を浮かべている。
「これ、何?」
「……へっ?」
女子がカードを勇人に見えるようにおずおずと差し出す。
それを見て、勇人は思わずあっと声を上げた。
「ご、ごめん。書き直すから」
「う、うん」
テーブルの上にある消しゴムを慌てて手に取った。そして、自分の名前を消す。
きっとこの世界で今、自分だけしか読めないその名前を……。
『ハヤトって……こうやって、書くの』
控えめな声で、幼い少女が……今の勇人にとっては妹に等しい子が教えてくれた、異世界リィンバウムで初めて覚えた文字。
それは、名前の書き方だった。
他にもフラットの仲間たちの名前の書き方は覚えたが、他のことはあまり覚えなかった。
買い物をする時にはガゼル達が大体は一緒で困る事は無かったし、
過ごした時間の中では言葉が通じるので違和感無く過ごせたのだ。
今、思い返せば、もっとあの世界のことを知っておきたかった。
今さら過ぎて、しかも今の自分が覚えていてどうにもならない知識であっても。
「それ、何処かの国の言葉? 驚いちゃった」
カードを再び渡した時に掛けられた言葉に、勇人の胸が一瞬詰まった。
「ああ……そうなんだ」
この世界……多分地球上に存在しない、今では手の届かない世界の言葉。
魔王を送還した時、帰るべきだと思って戻ってきた。
家族がいて、友達もいた。学生だしバスケ部員として大会で試合にも出たかった。
異世界に行って気づいたことは、自分には確かにやりたい事が沢山あることだ。
リィンバウムでの生活の中、帰れないかもしれないという不安を打ち消すようにやりたい事を想像しては奮起していた。
「……やりたい事、たくさんあるんだ……」
家に帰り、「ただいま」と告げると早々と部屋に入り、渋々借りてきた辞書の頁をめくる。
リィンバウムで覚えた向こうの言葉は仲間達の名前。
そして今、自分が生きてきた国の言葉すら辞書をめくらなければ解らない。
勇人は無意識に、ノートの空白にフラットの仲間の名前をカタカナで書いていった。
ひとりひとりの名前を覚えるたび、紙に書いて見せるとそれぞれの反応で喜んでくれた。その表情、言葉。
フラットという空間の全てが……。
「幻じゃないんだ。皆と過ごしたことは幻なんかじゃない」
―――遠いところに来てしまった。
ノートにシミがぽつ、ぽつ、と現れる。帰ってきたことを悔いてはいない。
彼らと生きる道が交差する可能性すら無いことが辛いのだ。
部屋に誰もいないから、勇人は泣くのを我慢しないで今は泣こう、と思った。
(泣けばいいんだ、泣きたいんなら)
なかなか感情を表に出さない、控えめな少女に向かって自分は何て言ってきた?
自分のままで、いればいいのだ。
『―――願え それが、力になる……』
脳裏に甦ったのは、リィンバウムのエルゴの声だった。頑張れば、力の限り諦めなければ何だって出来る。
リィンバウムはそんな甘い世界では決して無かった。しかし、それが無ければきっと最初から心が折れていただろう。
それは今いる世界にも言えることだけれど……。
自分が後悔すること無く突き進む原動力はいつでも願い、想いだった。
『ハヤトは強いのね』
儚げに微笑んだ存在も、今は遠く。
「……この世界にも…エルゴは存在するのかな……なんて。まさかな」
勉強する意欲も次第に薄れ、勇人は机に突っ伏す。
したかった事は何か? 頑張らなきゃいけない事は何か?
それらが頭の中で渦巻く。考えることが苦手な自覚はあった。
(なら……今、俺は何を願う?)
そう、考えるのは苦手だ。
考える前にいつも行動しては隣から注意する声が飛んだ。だけど最後には微笑んでこう言う。
『ハヤトがいつもそうだから、私がいるんですけどね』
反論も出来ず、ただ妙な気恥かしさを感じつつ、勇人は自然に思っていた。
「……今は、いないんだもんな……俺、頑張らなきゃ……」
そんなに昔のことでは無い筈なのに懐かしい笑顔が脳裏に浮かんで、勇人はゆっくり顔を上げ再び辞書とノートに向かい合う。
周囲にいた家族同然の仲間、そして隣に当たり前のようにいた少女。
背中を守ってくれる存在がいたこと、守りたい存在がいたこと。
温かい空気に包まれていたこと。
(なんだか背中がスースーするんだ)
願えば叶う? もしかしたら声が届く?
そう思おうとすると家族や此方の世界の友達の顔が浮かんで淡い罪悪感が過る。
だから、今しなければならない事は……
「……赤点を取らないことだよな、うん」
わざと口にして現実を確認した。
頑張らなきゃ駄目なんだ、と自分に言い聞かせて。
頑張らなきゃ帰った意味が無いんだ、と抑えきれない寂しさを呑みこんで。
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