最低限の栄養だけを考えられた食事。見た目も一応、最低限。少しパサパサしたパンをちぎって、口の中に放り込む。特に不満はない。トリスにとって、明日の生活を考えて脅えることが無くなっただけでも気楽だった。
蒼の派閥に連れられてから一ヶ月ほど過ぎようとしていた。組織の隅っこにある一人部屋を宛がわれ、「ひとまずここで休め」と言われその通り過ごしてきた。初めの一日目は鍵をかけられ流石に恐ろしかったが……。
(逃げようにも、ここが何処か分からないってのに)
そして、逃げたところで何も変わらない。トリスには心配してくれるような存在がまず、いない。万が一消えたところで、それは世間的にもトリスにとっても「どうでもいい」ことになるだろう。
ぼんやりサラダをフォークでつついていると人影を感じ、トリスは顔を上げた。無言で彼……ネスティはトリスの正面に座った。明らかに不機嫌。不穏なオーラがびしびし伝わってくるが、あえてトリスは食事を続行した。
ネスティはおもむろにテーブルの上に分厚い本を二冊、どんと置いた。それを見て、内心トリスは「……げっ」とうろたえる。
「言語の書き取りの復習は進んでいるのか?」
「……ええと」
「これ以上、ラウル師範に恥をかかせるようなら僕は黙っていない」
「……ごめんなさい。ちゃんと、やるから……」
だから、睨まないでほしい。トリスはネスティが苦手だった。いつも、眼鏡の奥から覗く眼は鋭かった。何よりトリスといる時のネスティは苛々しているようだった。追い立てられているようにさえ見える苛立ち。その原因は派閥に来てから何度も言われた「成り上がり」や「家なし」だからか、それとも勉強から逃げてばかりの姿勢なのか……。どちらも正解としては妥当だが、トリスには違和感があった。
単純に相性が悪いだけなのかもしれない。
しかし、蒼の派閥にいてトリスに近づいてくれる人は師匠となったラウルと、兄弟子であるネスティしかいないのも事実。寒空の下で遠くから温かい光景を見ていた日々と比べてマシかどうかすら、今のトリスには決められない。
元より、たとえ冷めたスープでももらえるのなら縋りつこう、と決めていた。トリスにとって生きるとはそういうことだったから。


トリスに言語と文章の基礎・応用の参考書を押し付けると、ネスティは自室に戻った。必要な家具しかない、白が基調の部屋。ただ一つ、ラウルが先日の試験でパーフェクトを獲った記念にと絵を贈ってくれたものが壁に飾られている。
ベッドに乱暴に倒れこみ、精一杯の深呼吸をした。胸の内で苛立ちが暴れ狂っている。それは、きっとトリスにも伝わっているだろう。それは恐る恐る見上げてくる視線で分かる。そんな目を向けられるような関係を望んでいる訳ではないことをネスティは理解していた。しかし、平穏な兄弟子と妹弟子の関係でいるには抑えきれない重く澱んだものがネスティの中にはあった。今日、昨日どころではなく、生まれる前から背負っていた因縁という名のデータたち……。
「突然、現れたから……」
苦々しくネスティは呟く。先に滅んでいった一族の仲間と同じように、薬を与えられ監視されながらゆっくり衰弱していくのだろうと覚悟していた。それ以外に生きる道は無いのだ。幼かった頃は従属に反発もあったが、今は慣れたものだ。むしろ、ラウルという召喚師に見出されたことは幸運だとも思う。きっと、滅んでいった仲間からは裏切り者と罵られるほどに。
(分かっている……分かってるんだ)
目を閉じればメモリーから、声が聞こえてくる。それはリィンバウムに対し大罪を犯した者たちの呪詛でもあった。
(見ていると苛々する……あれは僕だ。鎖につながれた僕だ……)
なのに、肝心の当人はそんなことも気づかず提供されたものを受け取り呑気に生きている。それはトリスにとって平穏そのものなのかもしれないが、あれがリィンバウム最強とも謳われた調律者の一族だと思うと吐き気がするのだ。
(かつて羨望と嫉妬していた者たちによって、彼らは貶められていく)
蒼の派閥の幹部は当然、トリスの出自を知っているだろう。その上で彼らはトリスを「家なし」と称しているのだ。かつて召喚師たちがクレスメント家に与えた屈辱の数々をトリスは知らず、ネスティは知っている。
(だから、僕だけがこんなにも歪んだ存在になってしまうんだ……これも一族の罰なのか……)
乾いたパンにも不平を口に出さず食べるトリスは組織にとって飼い馴らしやすい存在なのだろう。リィンバウムで生きる為の抗体を受け、生き永らえているネスティと同じように。
「――畏れているんだ、結局ヤツらは」
顔を腕で覆い隠し、ネスティは吐き捨てるように言った。口元が笑みで歪んでいることなど、ネスティ自身は気づかない。何度も繰り返し響いた『滅びてしまえ』という呪詛は、どちら側に向けられたものかさえ、ネスティには分からない。



BACK