ここには正常なものが、存在しない。
吐息と吐息がぶつかり、貪る音だけが空間に満ちている。


かつて、誓約者として選ばれた少年がいた。名はハヤトという。そして、その少年は今、リィンバウムを脅かす存在となりつつあった。事故によって散り散りになったサプレスのエルゴと、召喚された魔王に自身の魂を引き裂かれようとしている……その事実に気付いたハヤトは、誰にも言わず姿を消した。
パートナーとして厳しい戦いの中、ずっと傍らにいたキールにさえ、言葉を残さず。
――だけど、見つけた。
キールが「助けて」と叫び、ハヤトが応えたように……キールにも声が聞こえたような気がしたから。そこは数年前に、悪魔によって襲撃され廃墟となった農村だった。サプレスの魔の力が充満しており、名高い召喚師が結界を張ってもすぐに破裂して今は誰も寄り付かなくなったという。生きる者、全てが……。
それでも、彼の心臓は確かに動いている。廃墟の中、ただひとつ残された生命の気配を追い求め、キールはついに人気のない荒廃した屋内で蹲っているハヤトを見つけると、駆け足になった。埃が舞い、走ると床に跡が残る。屋根の隙間から漏れて差す光が、それをちらちらと照らしていた。
「ハヤト……!!」
床に手をついて蹲るハヤトの背に、キールがそっと手を置く。呼吸が荒く、床にぽたぽたと汗が滴る。
「ハヤト、大丈夫か!?」
「大丈夫じゃないから……こうして、いたのに……っ」
呻くようにハヤトは顔をゆっくり上げた。キールは真っ直ぐハヤトを見つめ返す。二人が再会したのは三ヶ月ぶりぐらいであった。
「ここでずっといたのかい? どうやって……」
「空腹が遠のいたんだ。俺の中の魔王は、サプレスの魔力と彷徨う魂を喰らっているから……」
苦々しくハヤトが言う。そして、腕でキールの胸を突っぱねた。力は頼りないが、ありありと拒絶は伝わった。
「だから、皆に悪影響があったら……万が一のことが、あったら。俺は、俺を許せない……から……」
体の中で暴れ狂う魔王と、均衡しようとするエルゴの力がハヤトからはち切れそうになっているのをキールは感じた。
「……大丈夫。これでも、サプレスの魔力には耐性があるし、生まれた時から慣れてるんだ。君よりもずっとね」
安心させるようにキールは跪き、ハヤトと視線を合わせる。戦いの時は、誰よりも先頭に立ち皆を守ろうとしていた勇敢なハヤト。彼の瞳は、深く脅えているように見えた。
(君は、誰よりも優しくて……誰よりも、傷つけるのを恐れているから)
突然手に入れてしまった力に対し、責任を果たそうと逃げなかった誓約者ハヤトは、十数年生きただけの、ただの少年でもあった。そして、キールに救いの手を差しのべてくれた存在でもあるのだ。
「それに、魔王召喚については僕の責任でもある。だから、ハヤトに魂を奪われようとも恨むはずがないだろう?」
「そんなの、嫌だ……」
キールは頭を横に振るハヤトを宥めるように両肩を持ち、そのまま腕の中に抱き寄せた。キールの白いマントがハヤトを全て包み隠す。ハヤトの髪に頬を寄せながら、キールは思う。それは、なんて甘美なことだろうと。
(僕は、それを望んでいるのか?)
ふわりと鼻に触れる茶色がかった髪に触れるのは、いつ以来だろうか。こんな風に、傍らにいることさえ懐かしい。
「嫌だよ……キール……」
床についたハヤトの手に、変化が起こった。即座にキールは察する。それは、魔王の力がハヤトを浸食しているのだ。血の気が指先から胴体に向けて失せていく。肌には見る者に禍々しさを植え付ける紋様が刻まれ、苦しげにキールの胸の中でハヤトは肩を揺らし呼吸を荒げる。
「嫌だ……キールに、会えた、のに」
キールはゆっくり、ハヤトの手に自分の手のひらを重ねた。一瞬、二人の間でバチッと火花が走ったような痛みが走る。その直後、ハヤトの肌を覆いつくそうとする侵食の速度が和らいでいった。
「僕は……君を、掴み取るよ」
魔王とエルゴ、せめぎ合う力の狭間に立たされた、孤独な魂をきっと、見出す。零れ落ちていく魂の叫びを掬い取り、放さない。
キールは目を閉じ、軽く触れるだけの口づけをした。ハヤトの目は、見開かれたままであった。何が起こったのか解らない、と表情が語っている。
「魔王なんかに……本当は、エルゴの王なんて、召喚術も、理想も、糞くらえだ……っ」
そのまま顔をずらし、首筋まで唇を這わす。ビク、とハヤトの肩が揺れた。侵食で指が震えているのだと、混濁する思考の中でハヤトは自分に言い聞かせる。鎖骨の上をざらりと温い感触が滑り、震えは全身に到った。ハヤトは恐る恐るキールの頭に手のひらを添わす。
「何者かに君が消されようとするなら、僕が……君を」
再び、ハヤトは目を見開かせ……ふっと微笑んだ。疲れたような、諦めたような。そして、救いを求めているような眼で。
「キールが、俺を見つけてくれる」
キールの頭を抱え込むようにしてハヤトは蹲る。その姿は殻に閉じ込められた幼子のようにさえ見えた。


キールが触れるたびに、魔王の力に侵された肌が色を取り戻す。それは一時的な凌ぎでしかなかったが、自分が触れた部分は確かにハヤトなのだとキールに実感させた。肌をさらけ出し、息を殺そうと必死なハヤトは戦闘や日常の中で知るものと全く違った。青年の逞しさより少年の脆さが色濃いハヤトの身体に唇と舌を辿らせるたび、ハヤトは耐えるように眼を瞑った。血の気が失せた身体に、新たに灯されたもの。それは、キールによってハヤトの内側にもたらしたものだ。丹念に足のつま先から、踝、そして大腿へと舌を這わせるとハヤトが声を殺して身体を捩るが拒絶はない。甲斐甲斐しく舐め取る様は、目の前の宝石を貪っているようにも見えた。
(結局、僕も同じなのか。やっていることは……君を)
目の前の少年以外の存在……キール自身の手によって、染め上げようとしている。キールの瞳の奥に自嘲が閃いた時、ハヤトがぎこちなく頭を上げキールの唇を奪った。
「それは違うよ……キール……違う……」
「――こんな時にも、君は……僕が本当に求める声に、応えようとするんだね……?」
泣き笑いしか浮かべることができなかった。ハヤトにとってそれは特別なことではないのだろう。彼はいつだって自然に、キールを受け入れる。そして今も――。
「ああ、違うんだね」
本当はハヤトをキールから奪おうとする世界、キールにハヤトを与えてくれない世界が嫌なのだ。だから、真っ白になりたい。二人でふっと、まるで溶けるように。
無我夢中でキールは自身の欲望をハヤトに突き立て、ハヤトは背に腕をまわしそれを甘受する。猛烈な痛みと僅かな快楽はハヤトに夢を見させる。今、自分を支配しているのはキールなのだと。荒くなる吐息に熱がこもり、キールに唇を吸われたら更に熱い吐息をハヤトが体内に吸い込む。どうか、魂まで届くように……それが、どちらのものでも構わない。世界を構成するのは互いしかなくて、他のものが不純物になっていく感覚。身体の最奥でキールが吐き出したものを灼熱と共に受け止め、ハヤトはゆっくり意識を手放していった。咄嗟に肩を支えられたのを朦朧とする中で感じ、キールの腕の中のハヤトの表情は安らかだった。
与えられたのは混じり気のない欲望。二人だけが支配する世界にたどり着けるように、今は静かに……愛しいものを手繰り寄せる。





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