「ネスが抱え込んできたもの、全部見たい」
そう言ってついて来たのはトリスの方からだった。迷いはあったがネスティはそれを承諾した。全ては明かされたことだ。今さら隠し立てする方がトリスを傷つけるだろうと思った。それに、トリスが願ったようにネスティも知っていてほしい気持ちがあった。
今日はリィンバウムで生きていく為の抗体を注入する現場に、初めてトリスが一緒に立ち会った。派閥内ではずっと極秘裏に行われ、それは今も変わらない。医務室で担当の医師が慣れた手つきで注射すると、ネスティは「ふぅ」と小さく息をついた。そして傍らに立つトリスの顔を見上げる。
「……随分渋そうな顔をしているな、トリス?」
「そりゃそうよ、分かってたけど注射って苦手なんだもん」
先ほどまで息を止めていたかのように、盛大な深呼吸をしてからトリスが答えた。
医師が事務的に一礼して部屋を出て、ベッドに横たわったネスティとトリスだけが残される。
「簡単そうに見えて、僕の身体は人間と組織が違うから、注射にしても難しいんだそうだ」
「そっか……それならちゃんと終わって良かった。また遠征が続くっぽいしね」
傀儡戦争の最中、精鋭の遊撃隊としての役目を与えられたトリスたちは、補給を終えればすぐにでも戦場へ向かう予定である。
「正直……キミにこんな現場を見せることになるとは旅立つ前は思わなかったよ」
天井の方を向いたままネスティは薄く笑う。少し皮肉っぽくも見え、トリスは無言で椅子に座ったまま先ほど処置を受けた方の手をぎゅっと握った。
「実際、こんな生き方は何度も止めようと思っていたさ。一族を虐げてきた連中に命綱を握られ、服従して生き長らえる……こんな惨めな……無様な生き方は」
「――うん……」
聞いてるよ、とトリスは握った手の力を強める。
「しかし、同時に僕が最後の生き残りだから生きなければならない……そう言い聞かせても来たんだ。この憎しみを絶やすことはライル一族を捨てることになるんだと」
ゆっくりネスティはトリスの方に顔を向けた。
「そんな時、全てを知らないキミが現れたんだ。最初はそりゃあ……」
「不快だった?」
くす、とトリスは苦笑する。ネスティの言葉は正直にかつての思いを伝えるもので、声は深く穏やかだった。
「ああ、まったくだ。本当にイライラさせてくれたものだ……」
「そこまで言う?」
言葉の内容とは裏腹に、二人を包む空気は温かく感じられた。まるで微かに鼻腔をくすぐる薬品の臭いが場違いのように。
「しかし、無感情に生きてきた日々はそれから変わったんだな……そして今は、キミがこうして隣にいる。不思議なものだ……これからも僕はきっと一族の生き残りとしての憎悪を抱きながら、派閥からの薬に縋って生きていくことになるんだろう……」
「――ネス」
自嘲っぽくネスティが笑みを浮かべた。
「みっともないと思うか?」
そこで掴んでいた手を離し、トリスはぎゅっと軽い力でネスティの頬をつねる。トリスの表情には本気でなくても明らかな怒りがあった。
「生きるのにみっともないとか無いでしょ。少なくともわたしは、派閥に来るまでも今も必死に生きてきたよ。そりゃ、疲れる時もあったけど。それはネスも一緒でしょ?」
「ああ……」
ぎこちなくネスティが頷く。
「よくさ、わたしがテスト勉強やるのはネスに叱られないようにする為だって言ったら怒られたでしょ? 勉強は自分の為にやるものだって。それと同じ風に考えればいいんじゃないかな?」
トリスの唐突に聞こえる話題転換にネスティは頭上に疑問符を浮かべる。トリスはそれに気づきつつも続けて話し出す。
「ネスが派閥からの薬を貰うのは一族の憎悪を絶やさない為じゃない。わたしとこうやって一緒にお話する時の為だったんだって」
「……そうだな、その方が……健全だな」
恥ずかしげながらも言い切ったトリスに、ふっとネスティは表情を和らげる。確かに、そう考えた方が全て報われるような気がした。トリスとは、今やネスティにとってそういう存在なのだ。
「だからね……わたしは、これを一番ネスに言いたい。ネスは、人一倍耐えて……頑張ってきたんだよ?」
「――……頑張って……」
「そうだよ。ネスは、ずーっと頑張ってきた人なんだよ」
トリスの表情も言葉も、そっと頬に添えられた手のひらも、どこまでも温かい。気を抜くと涙が零れてしまいそうな衝撃だった。トリスから与えられた言葉は、テストで満点を貰って子供が喜ぶような単純なものだったのに、ゆっくりネスティの心に浸透していった。永く飼いならして来た絶望まで包み込むようだった。
「頑張って生きてきてくれたから、わたしもネスに会えた……。だから、ありがとっ」
照れ隠しの言葉は、少しだけ涙で震えていた。ネスティも、いつの間にかトリスの手を濡らしていたことに気づく。どんなに貶められようとも、独りの時だって涙など流さなかった。それは意地であると同時にどこまでも惨めな自分を認識したくなかったからかもしれない。――今は、違う。ネスティは今、独りでは無い。そして、絶望と憎悪に満ちていた日々は大切な少女のたったひと言の肯定によって違うものへと変わろうとしていく。
「僕は……生きてきて、良かったんだな」
――何も捨てることなんて無かった。過去の因縁を超え新たに得たのは、かけがえの無い少女……。




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