気がつけば、空がうっすら赤く染まりだしていた。召喚術の歴史と技法について記された分厚い本を読み終わり、ソルは一息をつく。内容はソルが既に知っているものしかなかったが、本を読む時間というものは嫌いではない。
不意にドアをノックされ、「なんだ?」とソルが声を上げるとゆっくりドアが開かれた。立っているのはリプレである。
「お野菜がきれてるから今からちょっと買い物に出かけるんだけど、ナツミがまだ帰ってないのよ」
「ナツミが?」
そういえば、読書に集中していたとはいえ今日はナツミの元気な声を聞いていない。朝から出かけていたのだろうか。
「外が暗くなるまでに探してきてくれないかな? ガゼルにはフィズたちの迎えに行かせるから」
フィズは最近、剣術を習うようになった。ラミは見学と称してくっついて行っている。それぞれ、やりたい事や居場所を見つけつつある……それが今のフラットの姿だった。
「因みに、ナツミは何で外出してたんだ?」
「釣りよ、釣り。大物を先日取り逃がしたって、最近燃えてるみたい」
「……なるほど、分かった」
ずっと動かしていなかった体を椅子から起こし、ソルはさっさとナツミがいそうな川辺へと向かうことにした。
軽く運動のつもりで走っていると、アレク川が見えてきた。以前より随分水質は良くなり、魚の味も増したという話題を耳にしたことがある。少しでも家計の足しになればとナツミとソルは時折釣りに出るのだが、毎度一緒という訳ではない。サイジェントの治安もまた、良くなったことでナツミ一人で気軽に歩く機会が増えたのだ。……尤も、治安が悪かろうとナツミに敵う者がいるかなど愚問ではあるが。
「……ああ、やってるな」
真剣な表情で大岩の上から深度が高い場所へナツミが釣り糸を垂らしている。
「ナツミ!! そろそろ……」
「あ、ソル?」
ナツミが顔をソルの方へ向けたと同時だった。グン、と釣竿が大きく反応する。突然の強い引きにナツミがバランスを崩す。ソルが名前を叫ぶ間もなく、ナツミは大岩から落ち川へ真っ逆さまに落ちていった。慌ててソルはナツミがいた位置まで走り、大岩から下を覗く。水面から勢いよく飛沫をあげてナツミの顔が飛び出し、まず安堵した。
「くっそーーーー! 大物だったのにっ! してやられたっ!」
「――お前な、第一声がそれか……。早く上がらないと風邪ひくぞ?」
ソルはポワソを召喚し、「さあ、あのマヌケをここまで運んでやってくれ」と命じる。「聞こえてるわよ!」と下から声が聞こえたが、焦って心配した自分の方が間抜けに思えて無視することにした。ポワソがゆっくり飛んでいき、ナツミがその体にしがみつくと、再び慎重にソルの元まで飛んでナツミを下ろす。
送還の光に包まれたポワソにナツミは「ありがとね!」と手を振るとポワソは体をくるくる回して喜びながら消えていった。
「さて、と……。あーあ、びっしょびしょ……」
ナツミの髪、スカートから水がぽたぽた滴る。顔をぶんぶん振って水分を散らす姿はまるで子犬のようだった。しかし、ソルにとってはそれだけに留まらなかった。
普段は女性らしさより賑やか少女といった印象が強いナツミだが、いざ水に濡れた衣服が浮き彫りにする身体のラインが目に入るとナツミの女性としての側面を意識せずにはいられない。
「ねぇ、ソルー?」
黙り込んでいるソルを不審に思い、ナツミが顔をひょいと覗きこむ。ソルは咄嗟に顔を逸らした。それが、ますますナツミに不審を抱かせることになると知ってはいても。そこで、周辺に今から家に帰るのであろうまばらな人影を見つけソルは改めてナツミを足元から頭のてっ辺まで確認する。徐々に肌寒くなっており、ナツミが小さく「くしゅん」と咳をこぼした。
「ソル、寒いから帰ろうかー」
「……見られる」
「え、なに!?」
ナツミが聞き返す余裕を与える間もなく、ソルはナツミをやや荒っぽく抱きかかえ全力でフラットへ走って帰った。訳が分からないまま運ばれたナツミは「ちょっとどうしたのー!?」と叫んだが最後まで返答はなかった。
しかし、流石に体力が尽きてソルはナツミの部屋に下ろすとグッタリその場に崩れてしまった。ゼエゼエ肩で息をするソルは心配だが、このままでは風邪を引いてしまうのも事実。
「えーっと、ソル。なんだか分からないけど運んでくれてありがと。今から着替えるから、あのね、部屋をとりあえず出て欲しいんだけど」
それに、ナツミを抱きかかえたことでソルの服も濡れてしまったようだった。「風邪引いちゃうよ?」と気遣う言葉をかけられ、ソルは「あ、ああ」とゆっくり立ち上がり、そのまま覚束ない足取りで部屋を出ようとした……のだが。床に広がっていた『召喚術の基礎』……ソルがかつて、ナツミに与えた本に足を取られ、ソルの身体が後ろに崩れる。
「ソル!!」
ナツミは飛びつくように腕を伸ばし、ソルの上半身を支えるように一緒に横転してしまった。ナツミの腕がクッションになりソルは頭の強打を回避できたが、自分の身体の下になったナツミに「大丈夫か!?」と叫ぶ。ナツミはへらっと笑って「だいじょーぶだよ〜」と答えてから、片腕をそっと上げソルの前髪に指先をかけた。ふわり、と部屋の中で静かに水の匂いが揺れる。
「ああ、ソルもちゃんと拭かないと風邪引いちゃう。髪まで濡れちゃって……」
ソルがじっと黙ったままなことに気づき、ナツミは眼で「なに?」と問いかけた。そこで、二人の身体が密着していることに気づきナツミは距離を取ろうと腕でソルの身体を押そうとした。しかし、その手首をソルに掴まれ……そして、その掴んだ掌の熱さに驚く。
「えと、ソル? あのね……?」
「ナツミ」
静かだけれど、奥底に何か燻っているような、ソルの低音。ぞくりと背中が震えた。視線を外そうにも、何故か出来なくてナツミはごくりと唾を飲む。
ゆっくり瞳が近づき、唇が重ねられる。ナツミはまだ状況が掴めず……いや、追いつかず目を見開いたままそれを受け入れた。二人がキスをするのは初めてでは無い。苦しい戦いが終わってからのこと、ナツミから悪戯っぽくキスをしたのが最初。二度目は、確かソルからぎこちないながらも精一杯優しいキスを返した。まだ数える程度の、だけど着実に積み重ねてきた関係。ナツミとて18歳の女の子なのだ。いつか、そんな関係になるのかもしれないとふと想像しては、「きゃーっ!」と自分で掻き消すようなことはあった。
(それが、今なん、て)
まだ頭はパニック状態だ。ソルに突然火がついているのは何故かナツミには分からない。ただ、今までとは明らかに雰囲気が違う。口づけが止み、やっとナツミがほっとしたのも束の間、首元に熱い息がかかったと思えばソルの唇がナツミのうなじを辿り始める。今まで意識したこともない場所を、ソルが触れている。片方の手首はソルに掴まれたまま、振り払うことも出来ずナツミはじっと身体を竦めさせ息を殺す。
ずっと床を押さえたままだったソルの手が、じわりとナツミのわき腹から胸元まで動いたところだった。ナツミの頭の中が真っ白になり、気がついた時には悲鳴を上げていた。
ソルの手がぱっと離れる。先ほどまで微動も抵抗もしていなかったナツミの突然の変化にソルの目には驚きが浮かんでいた。
「帰ってるの? どうしたのナツミ?!」
ぱたぱた廊下を走ってくる足音が近づいてきた。二人同時に「マズイ」と思った時には、もうリプレがナツミの部屋のドアを開けていた。
「…………」
気まず過ぎる沈黙が三人に圧し掛かる。それを破ったのは、ソルの身体をやんわり押して立ち上がったナツミだった。
「あ、あのね、何でもないから! えっと、お風呂、入ってくるから、あの」
「着替えは用意しとくわね」
動揺しているナツミに、リプレがいつものように微笑むと「う、うん!!」と猛ダッシュでナツミは部屋を出た。残されたのは、ソルのリプレの二人。再び重い沈黙が降りかかりそうになる前に、リプレがおもいっきり大きなため息を吐いた。そのあからさまさにカチンと来て、ソルは立ち上がりながら「何だ?」と聞いた。
「――あのね、別にソルが一方的にとか、そんなこと考えてないよ。私だってあなた達の気持ちを知ってるし、応援もしてるんだよ?」
開き直らないでよ、とリプレはキッとソルを睨む。
「でもナツミは女の子なんだから。ソルが想像する以上に覚悟とか、怖いとか感じるものなんだよ? ちょっとナツミが落ち着くまではそっとしてあげて……ね?」
リプレの言葉には怒りや呆れではなく気遣いが色濃く、ソルは頷くしかなかった。しかし、これだけは言える。
「俺は、反省してないぞ。本気だから」
「そういうのもナツミに落ち着いてから言ってあげて。あと、風邪引かせるようなことは反省してね?」
キッパリ言われて、やはりソルはしぶしぶ頷くしかなかった。
「……そこは、反省する……」


いつもより熱めのシャワーを浴びて、ナツミは荒っぽく頭を洗っていた。
こういう場合、冷たい水で頭を冷やした方が良いのだろうかとも思ったが、水なら散々浴びたではないか。しかも、冷えるどころか火がついてしまった謎。ソルの熱っぽい瞳を思い出し、ナツミはシャワーを浴びたままその場にへたりと崩れた。思い出すだけで顔が燃えるようだ。キュッと強く目を瞑っても、目蓋の裏にはソルの顔が焼きついていた。
「ううう……あたし、どうして……」
確かに怖かった。しかし、悲鳴を上げてしまったことでソルを傷つけていたら……そう思うと胸が締め付けられる。ナツミの反応に眼を丸々として驚いていたソル。気持ちは確かに通じ合ってるはずなのに、突然あんな態度を取られてショックだっただろうか。それとも、失望してしまっていたら……?
「ソル、私のこと、ちゃんと……」
今日まで誰にも触れられたことのなかった自分の胸元に掌を当てる。バクバクと騒がしいそこには恐怖の名残はあっても嫌悪は存在していない。今になって驚きや恐怖、そして奇妙な安堵感が押し寄せてナツミは声を精一杯抑えながら泣いた。






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