ぐい、とトリスの前に出しだされたのは飾り気を一切配慮していないシンプルな服だった。ただ被ればいいだけの、真っ白な布で作られたそれは、レシィが勉強して縫ったものである。
「まずは、そのはしたない格好を止めるんだ。話はそれから」
 言っている途中で鋭い手刀が飛び、ネスティの眼鏡が宙を飛んだ。服を渡された少女は眼をギラギラ光らせてネスティを睨んでいる。
「これはお父さまがわたしにくれたものなんだからッ!!! あれはわたしのもの!!!! 大切なものだッ!!!」
 獰猛な獣のような迫力と、舌足らずな幼さを残す少女の声はひどくアンバランスに聞こえる。後ろでレシィがおろおろ様子を見守りつつ、そっとネスティの眼鏡を拾い上げた。薄暗い部屋の灯しは揺らぎながら、対峙するネスティとトリスを照らす。
「君は何をしたって悪魔にはなれない。人間でしか……ないんだから」
 今や、その言葉にすら嘘が混じるようになってしまった。マグナのことが脳裏にちらついたが、きっと大丈夫だと不安を押し殺す。彼には支え、守るべき存在がいる。そして、彼自身の強さをネスティは知っているのだ。
 ――だから、此処に来た。否、ネスティは選んだのだ。彼女には何も無い……まるで、かつての自分のように。ネスティは自嘲する。これは同属への哀れみなのか、因果の輪から逃れたと思い込んでいた浅はかさへの罰なのか……。
「君が父と慕うあの悪魔は君をいつか捨てるだろう」
「ちがう!!! お父さまはわたしを愛してるの!!!! 愛してるの!!!!」
 首をぶんぶん振ってしゃがみ込むトリスを労わるようにレシィが駆け寄った。優しく声をかけても、トリスは全てを拒絶するように耳を塞いだ。過激な口調で言い切り、勢いよく飛び出しながらも……本能的には支えが何もないと知っているのか、こんなにも脆い。レイスが利用するにはうってつけの人形だろう。
「いつか捨てられるんだ……僕らのように!」
 かつて、リィンバウム全てに存在を否定された血族として。ネスティの沈痛な言葉にレシィはぶるっと肩を震わせた。
「ちがう!!! 愛してるの!!! 愛してるの!!!!」
 悲鳴のような甲高い声は、徐々に濡れて弱々しくなる。縋るものがない手は、ゆっくり天井に向けられた。
「愛してるの、愛してるの、愛して……愛して……愛して……」
 少女の頬、そして胸……脚とゆっくり流れ、床にぽたりと雫が落ちる。淡く照らし出された少女の肌が、じわりと濡れて照り返した。見る者にぞくりとするような危うさを与える……儚さ。
「――それでも……そうやって、求めることが出来るんだ。僕より余程、君たちは強いということか……」
 光が届かない虚空に向けて眼を見開き、手を伸ばすトリス。ネスティは直視していられなくなり、その手をしっかり掴み取った。そこで、やはり女性の手だ……とネスティは実感する。類まれな魔力と野蛮ともいえる剣捌きを見せたトリスであったが、ネスティの中に包まれた掌は柔らかく、温かい。
「あいしてあいしてあいして……………あい……」
 少女が、初めて他者から貰った美しい言葉。存在を肯定する言葉は、『愛してる』という言葉だった。その言葉のためなら、幾らでも戦える。血を流すことも、奪うことも厭わない。そうしなくては生きていけない……トリスの眼からはらはらと涙が滴り落ちる。それは、何時しか目の前の男の服を濡らすこととなっていた。初めて知る温もりに全身をガタガタさせながらも、トリスは突き放さずその腕の中にいた。  それは、抱きしめているネスティも必死だったからかもしれない。決して荒っぽくは無い。懸命に宥めるように、ひたすら髪を指で梳いた。
「僕でも出来るだろうか……マグナ、君がそうしたように……」
 ――この、闇に沈みゆく涙を、止めることができるのだろうか。そして、愛を求める少女に、一体何が出来るというのか。そんな絶望と共にネスティは眼を閉じた。




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