湿った空気、薄暗い灯り。部屋は一見高級そうであるのに、肌寒い牢獄のようだった。
目の前が真っ白になったかと思えば、気がつけば見知らぬ場所、見知らぬ少女の前に立っていた。感情を押し殺したような印象を受けるその少女は、「ここにいなさい」と命令と謝罪が入り混じった口調でナツミを閉じ込めた。一体何が始まるのか、ナツミには分からない。ただ、自分の身に起こったことが非現実的すぎて頭が追いつかなかった。
「……あたし、学校から帰ってる途中だった……んだよ、ね?」
ぽつんと、広い空間でナツミの声だけが響く。何かしていないと不安がどんどん膨らんでいった。
ガシャン、と荒々しい音と、ケモノのような雄たけびが時折聞こえてくる。その度にナツミは恐怖に震え、此処が今まで生きてきた世界と全く違うことを本能で感じ取った。今まで座ったことのない、美しい装飾が施されたソファーはナツミに何の癒しも与えてはくれない。
「やだやだ……なんなの? 帰りたい……っ!!」
泣いてしまうとそのまま箍が外れそうだった。一気に全て溢れ、気が狂いそうで。
「……うっ……」
歯をかみ締めていると、ドアの外から靴音が近づいてくることに気づいた。明らかに、それは苛立っている。ナツミは緊張しつつドアをじっと見つめる。
乱暴に開かれたドアの前には、ナツミと同世代であろう少年が立っていた。鋭利な、冷たさを感じさせる眼に背筋がゾクッとする。
「ふん、お前がクラレットの人形候補か」
冷ややかな笑みを浮かべる少年。ナツミはその少年の言葉が指す『クラレット』とは、ここに自分を閉じ込めた少女の名前なのだと覚った。そして、もう一つ。目の前の少年と、その少女は決して心温まる関係ではないということ。少年の言葉、眼……それらからは侮蔑や苛立ちがにじみ出ていた。
「に、人形って何……!? あなた、誰!?」
「劣悪な力に相応しい、粗野そうな女だ。それとも、自分には無いものを求めてお前を選んだのか……あの女らしい」
少年が卑下するような眼をナツミに向ける。一歩、更に一歩近づくたびに、ナツミは全身が凍りつくようだった。抵抗すれば殺される、そんな凄みが少年にはあった。逃げても、叫んでも……きっとどうすることもできない。人生で初めてかもしれない絶望と諦念がナツミを縛る。
「逃げないのか……いい度胸じゃないか」
目の前まで来て立ち止まり、興味深そうに少年はソファーに崩れたままのナツミを見下ろす。舌なめずりするケモノのような眼差しにナツミは唾を飲む。頬に手を添えられ、思いのほか丁寧な手つきにナツミの心臓がバクバク喧しく鳴る。だが、突然爪を突き立てられるように引っ張られたと思うと唇に生々しい感触が押し当てられた。悲鳴を上げる間もなく、キスをしていることに気づきナツミは眼を見開く。甘いムードなど一切無い、殺伐とした臭い。それは、口内に押し入れられたもので更に強まった。肉食獣に食い殺されるような心地で少年の舌に口内を蹂躙され、恐怖が生理的な拒絶となってついにナツミの身体を解放した。 「……やっ!!!」
「――!!」
気がつけば、少年の唇の端から血が流れている。必死の思いで抵抗して噛んだ名残だった。これで、怒りを買い本当に殺される……ナツミの眼に涙が滲む。
「ふん……なるほど、魔力の質は合格か」
口元を拭いながら、少年は事も無げに踵を返しナツミの前から立ち去っていった。ナツミはそれを呆然と見送る。血の臭いと、侵された感触だけが残された。



――――それからのことは、曖昧で覚えていない。身体よりも心を幽閉されることが、どんなに苦しいかをナツミは知った。
内側から切り刻み、バラバラにされたのだ。それは痛みより重く、自分そのものを失ってしまったと気づいたのが、最後の理性。


遠くから、声が聞こえる。それに答える術をナツミは既に持ち合わせていない。また、自分じゃない何かに委ねるだけのこと……。
「お前も今じゃすっかりそのザマか。つまらん……」
差し出された手の先に、恭しく口づけをする。人間でも、ケモノでも無い……それが、人形。
「所詮消耗品ということか。お前も」
自嘲的に嗤った少年の言葉が誰に向けられたものか、その時のナツミには知る由もなかった。





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