見たことがあるものと、無いもの。
 似たようで、違うもの。
 ハヤトが生まれた場所……『名も無き世界』と称されるその世界は、日本と呼ぶらしい。
「あー、でも名も無き世界が日本っていうんじゃなくて、こっちの世界にも色んな国があってさ」
 ハヤトの説明は曖昧だった。キールが突っこんだ質問をすると、「地理、暗記が苦手だったし忘れた」と頭を掻いて口を濁した。こちらの世界では学校に行くのが義務になっているとのこと。リィンバウムでは……聖王国の中でさえ学校は希少な存在である。よほど学問が進んでいるということか、と思った矢先。
「ほとんど部活の方に夢中だったし、勉強とかすっかり忘れてるなぁ」
 そんなことを呟くハヤトを見たら、それも人それぞれなのだろうとキールは納得した。
 
 キールがハヤトと共にこの世界を訪れたのは、ハヤトの強い願いからだった。リィンバウムで生きることを決意した……そのことを、両親にしっかり伝えたい。かつての、フラットでの生活を始める前なら分からなかったであろう想いをキールは理解できた。そして、その願いを実現すべく名乗り出たのだ。
 元より不安定な名も無き世界への門を固定することは、魔力はあっても技術と知識が足りないハヤトのみでは不可能だから。命がけの2人の界の狭間の渡航は無事、成功し今に到る。
「ここから、俺はリィンバウムに召喚されたんだ。キールの声が聞こえて、さ」
 眼下には見知らぬ街並みが広がっていた。リィンバウムで門を開いた時、まだ早朝であったのに此処では空が刻々と赤みを増している。大気の感触で分かる。もう、夕暮れの時間なのだ。
「ここが、君が住んでいた街か……」
 2人で並んで見渡す街並みは、明らかにリィンバウムと違う世界なのだとキールに実感させた。
「あー!」
 不意に、知らぬ子供の声が聞こえ2人は一斉に後ろを振り向く。
「なんか変な服の人がいる!」
「あれって剣?」
 年は6,7歳ぐらいだろうか。友達同士らしい3人の無邪気な好奇心を纏った眼差しに、キールは一瞬呆けてしまう。しかしハヤトは「やべっ!」と声を発したかと思えば、キールの腕をグッと掴んで強引に走り出した。突然の行動に混乱しつつも、ハヤトが引っ張る方へキールも足を走らせる。
「どういうことだ!?」
「俺たちの格好、こっちでは明らかに不審人物だ! しかも剣はマズイ、さっさと俺の家に行こう!!」 「ふっ、不審人物ぅ!?」
 こちらのルール、文化は分からない。ここはハヤトの言うとおりにした方が無難だろう。リィンバウムにやって来た頃のハヤトと立場が逆転したような不思議な感覚に捉われながらキールは頷いた。

 なだらかな坂道を駆け下りながら、ハヤトは自分の心臓の音がやけに喧しく鳴るのを感じていた。こちらでは年月がどのぐらい流れているのか、もしかしたら浦島太郎のように年月が過ぎていて帰る家がとっくに無いかもしれない。過ぎていなくても、今から向かっている場所は既に『自分の居場所』が無くなっている可能性だって……。
「身勝手だな、ホント……」
 胸が張り裂けそうになる。先に選んだのは……ハヤト自身であるのに。
 視界に、懐かしい家が見えてきた。そして、玄関前。ハヤトは立ち止まり、ゆっくり深呼吸した。横に立つキールにも、ハヤトの緊張が伝わった。強大な魔獣と戦う時さえ勇敢な少年は、今、恐れていた。
「ハヤト……行こう?」
 だからこそ、ここは。
「――ん、そうだな」
 相棒の柔らかい声音に、ハヤトがふっと微笑む。きっと独りでは耐えられなかっただろう。
 何が恐いのか……それは、時間の流れだ。あらゆるモノに流れる、抗えない自然の摂理。
 2人で頷きあった時。ドアが開かれ、道路に人影を写す。ハヤトの目がみるみる丸く見開かれ、声無き声を叫んだ。
「――――勇人……勇人、なの?」
 中年の女性。キールには一目で、この人がハヤトの母親なのだと察した。目元が、そっくりだから。
「か……母さん……ただい、ま」
 ぎこちなく、ハヤトは一歩踏み出し母親と対峙する。ハヤトの言葉が終わる間際に、女性の眼から涙が溢れ、零れ落ちた。頬を濡らす涙は、ハヤトを忘れていなかったという証。母親にきつく抱きしめられるハヤトを目の当たりにして、キールは心の中で(おめでとう)と囁いた。

 それから2人は家に招き入れられ、「詳しい説明は親父が帰ってきてからする!」と泣き疲れた母親を宥めてから2階にあるハヤトの部屋に移動した。母親の話と様子を聞くに、リィンバウムとこちらの世界では時間の流れが明らかに違うらしい。リィンバウムより名も無き世界の方が遅い。浦島太郎のようにならなかっただけ、マシなのだとハヤトは思う。
 召喚術の原理が働いているのか、幸いにしてキールの言葉も母親に通じることはハヤトには心強いことだった。 「ここがハヤトが暮らしてた場所か」
「あ、ああ……」
 ベッドには布団が畳まれた状態で置かれている。部屋の空気はこもっておらず、いつでも使える環境だった。思わず目頭が熱くなり、咄嗟にハヤトは顔を腕で隠す。 「……これは?」
 わざと視線を逸らしてくれたキールの優しさに感謝しつつ、ハヤトはキールが両手で持ったそれを感慨深く見つめた。
「バスケットボール。……こっちでは有名なスポーツ……んーと、ゲームでさ。俺、バスケ部だったんだ」
「バスケ部?」
「これを毎日必死にリングに入れる練習をしてたんだ……」
 ハヤトが両手を広げ前に差し出す。意図を汲んでキールはその中へポンと投げた。シュパッと、懐かしい……とても遠く懐かしい感触が、ハヤトの掌に触れた。バスケ部で毎日汗を流していた日々も、ハヤトの掌はボールで擦れ軟らかいとは言えなかった。しかし、今は違う。剣を持ち、戦う日々はハヤトの手を戦士のものへと変貌させた。
「楽しかったんだろうな。君、今すごく懐かしそうな眼をしてる」
「ははっ、まあ青春懸けてましたからー。いいんだよ、キール。気を遣わなくても」
 キールの瞳が何を問いかけているかぐらい、ハヤトにはお見通しだ。『この世界にいてもいいんだ』とキールは思っているのだ。そして、言うべきか迷っているから先にハヤトは言うのだ。
「俺はリィンバウムで生きるために、此処に戻ったんだ」
「君の母上……その、疲れた顔をしていたよ。ハヤトがいなくなってから苦労されたんじゃないかな……」
 それはハヤトだって気づいていた。どちらかというと若く見えた母の顔には憔悴と老いが深く刻まれていた。その原因は自分であろうことも。
 早く忘れてくれた方が良かった。忘れて欲しくなかった。どちらも、ハヤトの本音だった。
「だけど、決めたんだ」
 全てを振り切り、否。ハヤトは決断した。
 手の中に収まっているボールをリィンバウムに持って帰ろうかとふと思ったが止めた方がいいだろう。未練になりそうなものは、残さない方がいい。ハヤトは右手でボールを慈しむように撫でてから、床にポンと置いた。
「そっか……なら、僕からは何も言わない。これから説明することの方が大変だろうしね」
「理解してもらえるか解らない。なんせ、突拍子も無いことだらけだからなぁ」
 ベッドに腰をおろし、ハヤトはこれから迎える時間について思案する。まず、自分が何故消えたか。前で座っているキールの存在について。これからのこと。ハヤト自身が経験してきたことは、語らない方が良いだろう。まるでおとぎ話、現実なら悪夢のような出来事に聞こえるかもしれない。 「……母さんにも親父にも、ちゃんと、向こうにも安心して暮らしていける場所があって、仲間がいることを伝えるんだ」  少しでも安心してもらえるように。ハヤトは強く生きていくのだと伝える為に。
「あと、カッとなった時は諌めてくれる相棒がいるってこともさ」
 ニッと笑ったハヤトに、キールは苦笑した。最大限の甘えであることを、2人共受け入れていた。

「勇人、お父さんが帰ってきましたよ!」
 階下から母親の声が聞こえ、思わずハヤトは息を飲む。いよいよ、その時が来たのだ。
「ハヤト、行こう……」
 固まっているハヤトにキールが声をかける。そんな日常的なことにここまで安堵するとは、ハヤトは思ってもみなかった。
 ハヤトの母の説明だと、会社に出勤している父親に連絡をしたら急遽帰ってきたらしい。テーブルには大きな土鍋が陣取り、中ではぐつぐつ野菜や魚が煮だっていた。キールも見たことのある野菜がちらほら見え隠れしていて、思わず観察してしまう。
「――親父……」
 ハヤトが、テーブルの前に座っている男性の顔を見て呟く。キールは改めて、ハヤトの父親を失礼にならないよう配慮しつつ視線を向けた。穏やかそうな、中年の男性だった。年齢は知らないが、白髪が少し目立っていた。
「……立ってないで、座りなさい。ええと……キール君、だったかな?」
「は、はい!」
 背中をピシッと真っ直ぐにして、キールは慌てて返事をした。
「どうぞ、ご馳走とまではいかないが……歓迎させてもらうよ。勇人がお世話になったと聞いたよ」
「あ、いえ……」
 大らかな声は、聞く者に安心感をもたらす。この人がハヤトの父親か、とキールは改めて感じた。ハヤトが生きてきた環境、生活がまるでこの食卓に凝縮されているようである。 「――まず、俺の話を聞いて欲しいんだ。何があったか、話すから……」
 ハヤトから話を切り出した。忙しく台所を行き来していた母親も椅子に座り、久しぶりに帰ってきた息子を見つめる。余裕のないハヤトでは見出せないであろう両親の瞳の奥にあるものを、キールは感じ取っていた。自分は今、席を外した方がいいのかもしれない……と口を開こうとしたらハヤトの父親と眼が合った。
 深い眼差しは、キールが知っている父親とは全く別のものだった。無条件で愛し、慈しむ気持ち。彼らにしてみればキールは息子を奪った張本人だ。ハヤトと両親が決裂すれば、自分が責めを受けるつもりだったのだが、キールは自分を恥じた。
(ハヤトのご両親だもんな……そっか……)
 さよならを言う為に姿を現した息子を、結果的にハヤトの両親は認め、受け入れた。
 ……涙は、隠せなかったけれど。

「今日はあなたの部屋で休みなさい? 疲れてるでしょう?」
 キールの分の布団をハヤトの部屋まで運んできた母親の言葉に、2人は素直に頷いた。
「俺は弱いからさ、明日にはリィンバウムに戻ろう」
 先ほどまでそんな言葉を泣き笑いの入り混じった表情で言っていたハヤトは、母親に向かって「ありがとう」と応える。今日は、ここで過ごしてきた想いを抱きしめていようと決めた。キールがいなければ、そんな余裕さえ持てなかっただろう。
 名も無き世界という違った環境、何より門の固定で多大な魔力と集中力を要したキールは、布団を床に敷いた途端、力なく崩れた。慌てて「キール!?」と声を上げたハヤトに、キールは片手だけ力なく振った。
「だい、じょうぶ……初めてのことだったから思っていたより疲れた、みたい……」
 そのまま一気に睡魔に意識を持っていかれたキールに、ハヤトは「ありがとう」と声をかける。キールに布団をかけ、ハヤトも懐かしいベッドに身体を横たえた。そこで、やっと自分も激しく消耗していることに気づくのだった。


 ……ゆっくり眼を開くと、部屋に白い光が差し込んでいた。顔を少し上げると、キールがぐっすり昨日と全く同じ姿勢で寝ている姿が見えた。主がいない部屋の時を刻み続けてきた壁時計は、6時を示している。
「……起きるか」
 グンと両腕を天井に向けて伸ばしてから、床に転がっているバスケットボールを掴んだ。
 キールを起こさないように忍び足で階段を下りたところで、バッタリ遭遇したのは……。
「親父」
「随分早起きだな……コーヒーでも飲むか?」
 庭で久しぶりにボールと戯れようとしていたのだが、ハヤトは「うん」と首を縦に振って応じた。
 父がハヤトの前に差し出したコーヒーはインスタントだったが、一口飲んで「美味しい」とハヤトは笑った。
「どうだ? 久しぶりの家は」
「ひたすら懐かしくて……変わってなくて……」
 ああ、駄目だ。声が徐々に震えてくる。
「母さんと親父は、……老けててさ…………いっぱい、ごめん……」
「昨日いっぱい謝った上にまだ謝るのか? 自分で決めたっていうから送り出すのにそれじゃあ父さんも母さんも安心できないよ?」
「う、うん……うん……っ」
 腕でごしごし滲んだものを荒っぽく拭ってから、ハヤトは笑った。しかし、父の視線に先ほどと違うものを察し首を傾げた。
「――勇人、お前も……随分、変わったよ。そう、父さんよりもずっと沢山のものを見てきたような顔をしてるよ」
「俺……?」
 リィンバウムで起こった詳細を話した訳ではない。しかし、ハヤトが感じたように両親である2人も息子の変化をまざまざと感じていたのだ。
「身体つきも……その腕も、そう、掌だって。もう、高校生に戻れない生活を、過酷なものを……背負ってしまったんだろう?」
 言外にあるのは、『止められる訳がない』という諦念かもしれなかった。真剣な父の眼差しから逃げないように、ハヤトは真っ直ぐ見つめ返し、笑った。フラットに暮らすもう1つの家族や、共に戦った皆が知る顔では無い。名も無き世界で、新堂勇人として生きてきた全てを込めて。
 全てを、届ける為に。
「俺は、幸せだよ。ここでも、向こうでも……だから」
「――ああ、そうだね」
 2人共、努めて笑顔でいるようにコーヒーを同じタイミングで口にした。
「戻る前に、俺が親父と母さんにラーメン作るよ。こっちじゃまぁ、ラクなんだけど」
 フラットではハヤトの為にリプレが作り出してくれたラーメン。こちらではお湯を沸かして切った野菜と麺を放り込むだけの簡単な料理ではあるが……。
「家族で食べるラーメンって最高だから!」
 
 それは何処にいたって変わらない、真理。




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