異変を察知したのは、誓約していたという名残の影響か。
よく知る、人間にしては異様に強い魔力を持った元・誓約主の気配に違和感を覚え、バルレルはむくりと起き上がった。窓から漏れるのは、夜の冷気。ふわりと鼻に触れる草木の匂いは、聖王都とは違う異国のものだ。今は蒼の派閥からの要請で各地に眠る遺跡の調査する旅の途中。旅先の宿でやっと一息ついたところであったのだが……。
バルレルは廊下に出て、一直線に早足で歩いた。そして、無遠慮にトリスが眠る部屋のドアを勢いよく開ける。
「おい、トリス……?」
ベッドで眠るトリスの顔を覗きこみ、バルレルは「うっ?」と呻いた。明らかに顔色がおかしい。蒼白で、小刻みに身体を震わせていた。
一瞬どうしようかと迷った後、「おい、オンナ!!! アメル!!!!」と叫んでいた。


「風土病……です、か……?」
世話になっている宿屋の女将がネスティたちに告げたのは、皆が続々叩き起こされ集った深夜だった。
「ああ、そうだよ。昔からここいらに伝わる熱があがって、次第に呼吸がままならなくなる病気さ。最近では殆ど見かけなくなったんだけど、遠くから来たお客さんには耐性が無いからねぇ……」
「あの、それでお薬はあるんですか?」
アメルが苦しげに眉を顰めて眠るトリスの傍に座りながら、女将に聞いた。
「それがねぇ……最近は殆ど必要ないからきらしていて……」
のんびりした口調がバルレルを苛立たせる。ネスティが前に出て、「この病気は自然に治るものなのですか?」と努めて冷静に訊ねる。回答は、女将の表情を見れば明白だった。バルレルの舌打ちする音が部屋に響く。
「ごめんなさい……体力は戻せても未知の病気を消し去ることは出来なくて……」
トリスの両手をきゅっと強く握るアメルに、ケイナが「あなたまで倒れたらそれこそ大変よ」と後ろから肩を支える。ふぅ、と小さく息をついてから様子を後ろから見守っていたフォルテが一同を見渡す。
「女将はこの病気に対して耐性があるってことでいいんだよな? じゃあしばらくは女将に看病は任せようぜ。オレらまで感染したら手の打ちようがないからな。それでいいか、ネスティ?」
「――あ、ああ……」
動揺を隠せないネスティの背中をばしっと叩きながらフォルテが「よーし!」と声をかける。
「じゃあ、私たちは薬を調達しましょう? 女将さん、最近はっていうことは、あるにはあるんでしょう?」
「それがね……ここの地元にある高山に咲いている花なんだよ。今は咲いてる時期だから、薬はたくさん作れるだろうがね、人間の足で辿りつくのは三日ぐらいかかるだろう。そして、この病気は」
「……今すぐ出発する」
固い声と共にネスティが踵を返し部屋を出ようとすると、「待ちな」とネスティの前にバルレルが立ちはだかった。不審げに見てくるネスティをバルレルはフン、と睨み返す。
「テメエらがいると邪魔だ。オレが行ってやる」
「バルレル君……!?」
突然の提案にアメルが立ち上がる。ガタ、と揺れる音が静まると荒いトリスの呼吸だけが聞こえた。苦しげなそれは、悪魔にとって……特にバルレルにとって何の旨みもない、生気が失われたものだった。思わず、歯噛みしてしまう程度に。
「人間の足ならと言ったな、ババア? じゃあ悪魔の足と……翼ならどうだァ?」
「あ……っていうか、飛べるのかお前?」
フォルテの言葉に「あァ!?」とバルレルは声を上げる。
「何の為にあると思ってやがる。誓約に縛られていない今、その気になりゃ羽ばたきだけでこの宿をぶちのめしてやらア!」
「それは止めてね、お願いだから」
勇みこむバルレルに女将が懇願した。皆の視線がバルレルに集まる。
「……任せて……いいんだな?」
「フン、テメエの代わりに見つけてやるよ」
「――変な気を遣うな。そこは悪魔らしく応じればいいだろう?」
「――フン……。テメエらが傍にいる方がいいだろうが」
ネスティに背を向け、バルレルは廊下に出ようと歩き出す。すると……
「バルレル君!」
アメルは、ふわりと微笑んだ。
「私だって、翼はあるのに。トリスの為に何も出来ないのが悔しい……だから、お願い。私の分も、お願いね?」
「テメエはトリスの体力が尽きないようにしとけ。オレが戻った時にトリスが息してなかったら、テメエの息を止めてやる」
「うん、約束」
にっこり頷くアメルに拍子抜けしてから、気を取り直してバルレルは外に駆け出した。一同が、何か小さな竜が羽ばたくような音を耳にしたのはそのすぐ後だった。
「……本当に無力なのは、僕なのにな……」
自嘲気味に吐き出すネスティに、フォルテが肩に手を置いて笑う。
「言ったてただろうが? あのバルレルが傍にいてやれって言ったんだぜ? ここは薬を持ち帰るのを信じて一緒にいてやれ。それに……アメルまで倒れないようにオレらも注意しないとな?」
「――はい……」
力なくネスティは頷く。
「トリス、頑張って……絶対、助かるから」
祈りをこめたアメルの声に、微かにトリスが目を開く。必死に呼びかけるアメルに、そっとトリスは苦しげだが笑顔を見せた。
「……じょぶ……だから、アメ……泣いちゃ……」
「――はい……っ」
目元をごしごし擦ってから、アメルが大きく頷く。それを確認してから、再びトリスは目を瞑る。
遠くなる、かつて誓約を交わしていた霊界の魔力を微かに感じた。
(イラついちゃって……)
ずっと、ずーっと昔。はるか北で、生きていた頃。同じように、臥せったことがあった。そんなことをぼんやり思い出してから、いつの間にかトリスは意識を再び手放した。


深夜の空を、バルレルはひとり羽ばたいていた。暗雲が立ち込め、見下ろすにしても視界が悪い。病状を説明された時に教えられた、薬となる花は白く、特徴がはっきりしていると写真で見せられた。それにしても、独りには限界があることを痛感せざるをえなかった。
「――――このオレが、探すっつたら見つかるんだッ」
地表に下降して、バルレルは周囲を見渡す。気温はぐんぐん下がり、悪魔の身ではあるが一瞬ぶるっと震えるぐらいだった。……しかし、それよりも震えが走ることが起こったのだ。

――真っ青な顔だった。呼吸は不規則で、時々止まるのではないかと思った。
今まで、幾度となく命を懸けた戦いを経験した。その先頭には、いつもトリスが立ち、傍らにネスティ。それにバルレル、アメルに……仲間たちがいて。なんとか、今も戦争を生き残り旅を続けてきたのである。
それが、あっさり崩れる可能性を忘れていた。考えようとしていなかっただけかもしれない。いとも簡単に、まるでその風のようにふわりと……死が、訪れることがあると。
人間は弱い。血をたくさん流せば死ぬし、寒くても熱くても生きていけない。なんて、脆いのだろうか。過酷な戦場を生き抜いてこようと、免れない人間の特性だった。バルレルが持たない、……知りえない、弱さ。
「アイツラは簡単に、死にやがる……ッ」
第三の目を凝らし、周囲を探索する。なかなか見つからず、苛立ちが募る。女将の話だと、リミットは短い。アメルの奇跡の力で体力だけは維持できるが、呼吸が止まれば意味がないのだ。アメルもまた、天使の力を持つといえど万能ではない存在であった。
ぽつ、ぽつ……と頬を空からの雫が打つ。無力感に潰されまいと、バルレルは大気を震わせる雄たけびを上げた。


「トリス……大丈夫だから……絶対、絶対に……」
そう言いながら椅子からよろりと横に倒れそうになるアメルを、咄嗟にケイナが支えた。
「もうっ!!! 貴女まで倒れたらトリスが元気になった時、怒るわよ!? いいから休みなさい!!!」
本気で心配して叱ってくれていることは、痛いほど解った。アメルは反論しようとする口を一旦閉ざし、「はい……」と頷いた。
「おい、ネスティ。お前もそろそろ休んでおけ」
フォルテの言葉に、ネスティはゆっくり首を横に振る。
「いえ……。こいつの面倒を看るのは、僕の役目です。それに……」
「無力感に耐えるなんてな、ただの自己満足の一種だぜ?」
「それでも、です」
ふぅ、と大きく肩を竦めさせてからフォルテは両手をあげた。好きにしろ、という意図にネスティは深く二人に頭を下げる。休ませる為、ケイナがアメルに部屋まで送り、フォルテも一度部屋に戻った。女将が時々、温かいスープを用意してくれることに感謝しつつ、ネスティはトリスの傍らの椅子でずっと見守り続ける。
ふと、雨の匂いに気づき窓の外を覗いた。
「……大丈夫だろうか……」
ネスティはバルレルが強力な魔王であることは知っている。しかし、それが花を見つけることが上手いとは結びつかないことも解っていた。それでも、今は頼るしかない。
「――――アイツも、変わったな……」
バルレルがトリスに召喚された場面には立ち会っていない。しかし、その当日から顔を合わせていた。護衛獣なんて立場に収まりそうにない、奔放な悪魔特有の気質に心配もした。元より悪魔はヒトに従うことに抵抗心が強い生き物だ。屈服させる魔力も、相応に必要となる。
「それが、今……。いや、他人のことは言えないか……」
心配している。そして信じている。そんな気持ちを抱いている自分も、随分変わったものだ。ふっと苦笑を浮かべてから、ネスティは苦しげに目を閉じたままのトリスの頭を撫でる。
「お前のせいなんだぞ、トリス? だから…………生きてくれ……」


雨脚は速くなる中、いつの間にかネスティもベッドにもたれ掛かって寝ていた。肩には毛布がかけられていた。
「あ……すまない」
「いいえ、十分休ませてもらいましたから」
隣に椅子を置いて座っているアメルに詫びると、柔らかな笑顔で返された。
ネスティは部屋の中の時計を確認する。早朝と呼べる時間帯だが、天気のせいで室内に入る日差しは薄いものだった。
「よう、お前らも体調の方はどうだ?」
部屋に入ってきたフォルテとケイナに、ネスティは「大丈夫だ」と簡潔に答える。次に、女将が皆の分の朝食を運んできた。お礼を言いつつ、なかなか喉を通ろうとしないスープを無理やりネスティは飲み込んだ。
トリスの顔色は、ぞくっとするほど白い。静かに、不規則に。呼吸は続いていた。
「バルレル、大丈夫かしらね……?」
ケイナが言ったとほぼ同時だった。ばたんと大きな音を立てながらドアが開く。現れたのは、ずぶ濡れ状態のバルレルだった。見るからに憔悴した顔で、ぐっと拳を前に突き出す。手の中には、ぼろぼろの白い花が、一輪。
「コレ……コレだけしか、見つからねェ……オレには見つけられなかったんだ……! コレで、足りるか……?」
ぐったりした小さな悪魔の手から受け取った女将は、しっかり頷いた。明るい、自信を持った言葉でもって。
「ああ、大丈夫!! 後は任せな?」
「……ヘ、ヘヘッ……そ、か……」
ぐらりと視界が斜めに揺れる。自分の名を呼ぶ声、そして先ほどまでずっと自分を包んでいた雨の音よりも。不思議とトリスの呼吸する音がはっきり聞こえてきて、バルレルは安堵と共にそのまま倒れた。





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