「もうすっかり顔色も戻ったわね」
「えへへ、ありがとう女将さん」
山菜のお粥をふうふうしながら食べるトリスは、幸せそうに笑った。体力についてはアメルの力によって維持されていたのだ。更に煎じて飲んだ薬の効果は抜群で、2、3日もあれば再び出発できるだろう、とフォルテが話していた。
「本当に良かった……」
ぐすっと涙ぐむアメルに「心配かけてごめんね」と心から感謝した。
「もう、ネスティなんて自分の方が死にそうな顔してたんだから」
「ケイナさん!?」
珍しく慌てて声をあげるネスティに、一同は笑う。ひとり、別室のバルレルを除いて。
「それで、バルレルが倒れたって聞いたけど、まさか」
「疲れ……というより、安心したんだと思う。バルレル君、必死に探してくれたから」
「そっか。アイツにもお礼言わないとね」
胸をなでおろし、トリスは微笑んだ。


その、話題になっているバルレル。実はベッドの上で起きていた。トリスが元気そうに笑っていることと、アメルが余計なことを言ったことと。全て把握して「くそっ」と舌打ちした。魔王たる自分が、安堵して気を失ったなどと同属に知られたら大恥もいいところだ。――だけど……今回は、免れた。
確かにバルレルは、今、安堵していた。ふぅ……とゆっくり呼吸する。ゆったり、丁寧な呼吸を。屋根を叩きつける雨の音が、やけに五月蝿く感じた。
すると、ぱたぱたぱたっと駆け足の音が聞こえてきて、威勢よくドアが開けられた。廊下には、トリスが笑顔で立っている。
「バルレル! 薬を採って来てくれたって聞いたよ、ありがと!!」
「お、おう……」
微妙な反応に、トリスは「バルレル……?」と声を潜めた。ゆっくり歩き、バルレルの正面に屈み視線を合わせる。少し戸惑った表情を見せてから、やや視線を落とすバルレルに「どうしたのよ?」とトリスは聞いた。
「トリス……お前、死ななかったんだよなァ?」
「――? ええ、バルレルたちのおかげでね」
「そうだよな……」
「ね、どうしたのよ? あの、心配させてごめんね? もう大丈夫だから……」
本格的にバルレルの様子がおかしい。もしかしてバルレルも同じ病気にかかったのではないか。
「死ななかったけど、また……こんなことが起こる可能性だってあるんだよなァ?」
「――――バルレル」
やっと、トリスはバルレルの顔に浮かんでいるものが分かった。それは、不安だ。しかし、不安の中にあるものまでは読み取れない。
「大丈夫よ、バルレル。たしかに誓約はきれてるけど、今回みたいな不安にはさせないから」
「トリス……?」
顔を上げ、バルレルは再びトリスと視線を交わす。
「意識が飛ぶ前に、送還するから。あなたを絶対、はぐれなんかにしない。これは召喚師としての義務であり責任なんだから、ちゃーんと」
「ハッ、テメエ、悪魔より残酷な時あるよな……」
「バルレル……バルレル!?」
突然トリスにぶつかる勢いで飛び出し、バルレルは走って部屋を出た。慌てて追いかけようにも、先ほどまでベッドで寝たきりだったトリスは咄嗟に走り出すことが出来なかった。
早足で廊下に出ると、異変に気づいたネスティが「どうした? バルレルがすごい形相で出て行ったぞ……!?」とトリスの元まで駆け寄る。首をぶんぶん横に振りながら、トリスは「解らないよ……!」と弱々しく項垂れた。
「何があったか、教えてくれ」
「……うん」
トリスは、つい先ほど行われた会話についてたどたどしく説明した。返ってきたのは、深く重い、ネスティのため息だった。トリスが文句を言う前に、ネスティは外に意識を向ける。
「君は病み上がりだ。僕がバルレルを見つけてくる。トリスは、アメル達に伝えておいてくれ」
「わ、わかった……」
多分、ネスティの言う通りにした方が正しいのだろう。本能的に、トリスは頷く。
ネスティを見送ってから、ふとトリスは背筋に走った悪寒に身体を震えさせた。息が苦しくて、熱くて、不安でたまらない。そんな記憶が蘇る。それはこの夜を遡り、更に冷たい記憶へと繋がっていった。誰も自分を知らず、誰にも気に留められず。雨をなんとか古びた小屋で避けて、ただ雨が止むのを待った。
誰も来てはくれないのだから、そうすることしか出来なかったのだ。
トリスはそっと仰ぎながら、眼を閉じた。


激しく打ち付ける雨の中、傘はあまり役には立たなかった。
小さな町の通りを少し歩けば、バルレルが町の広場でじっと佇んでいるのを容易く見つけることができた。遠くに行かれていたら、発見は難しかっただろう。ひとまず安心してから、ネスティは「バルレル!」と名前を呼んだ。
恐らく、否……確実に、バルレルはネスティの気配を察知している。それでも逃げないのだから、とりあえず話す気はあるのだろう。
ネスティの方を向くと、バルレルは幼い顔に嘲笑を滲ませた。
「フン、アイツのお守りかよ、大変だなァ、眼鏡……?」
「話はトリスから聞いた。妹弟子が、非礼を……いや、無神経なことを口にしたことも聞いている。謝らせてくれないか。そして、戻ろう。いくら悪魔でも、そう雨に打たれ続けるのも良くないだろう」
「……妹弟子が、か。テメエこそ無駄な気遣いか慰めかしらねえけど、いらねエよ、ンなくだらねエやつはよ!」
「――そうか……。トリスも、罪なものだな。君が感じた恐怖は、トリスへの喪失感だろう? 僕は……彼女を知る前、ずっと自分が世界から失われることだけが恐怖だった。ある意味、君はかつての僕以上に人間らしい」
「屈辱しか感じねエよ!!!」
声を荒げるバルレルの発した魔力の波が、ネスティの傘を真っ二つに裂いた。
「所詮、テメエもアイツも、あの女も、このリィンバウムに生きてる。そう認識された生きモンだ。どう足掻いても、テメエがテメエを呪っていても人間っていうクソ汚なく脆いモンに変わりねエんだよ! オレはどうだ……? 呼びだしたヤツさえ解ってねえ、はぐれだァ!!? ふざけんな!!!」
「……そう、だな……」
ネスティは薄く、儚げに笑った。機械の体と人の体。両方併せ持っていても、先祖がかつてリィンバウムに逃げてきた存在だとしても。ネスティには所属する場所があり、家族と呼べる者がいた。
「僕には拠り所がある……そういう、ことだな……」
「所詮オレはアイツにとって部外者ってこったァ。テメエらが言う因縁や呪いだってな、他者を排除したテメエらだけの酔った関係だ。オレにはそんなモノすらねえ……どこにも、この世界に」
付き合ってやる。――そう言った時の覚悟は、軽いものではなかったはずだ。ただ一つ、この世界との繋がりがあるとしたら、トリス以外にありえないし、望まない。
それすら失われたら、トリスがいう『はぐれ』に成り下がるのだろう。魔王なんて称号が滑稽に響く、宙に浮いた存在へと。
「酔った、関係か。耳が痛いな……」
ネスティは呟く。周囲が優しすぎて、誰も自分たちを断罪しなかった。過去は過去だと。そして、3人も決別したはずであった。新たに因縁を絆と呼びかえることで、前に進んだのである……。
「フン、帰ってやらア。オレよりテメエの方が貧弱なんだからな、眼鏡」
「……ああ、そうしてくれ」
地面に転がった傘にちらりと目を配ってから、拾うことなくネスティは先に宿の方へ歩き出したバルレルに続いた。
――雨は、徐々に上がりつつあった。


2人で帰ると、玄関前で待っていたトリスがおもいきり抱きついて「良かった……!」と出迎えた。その後ろには、安心したようなアメルの姿も。
女将の勧めでひとまず2人は風呂に入り、漸く一同は落ち着きを取り戻すのであった……。


バルレルが烏の行水のようにさっさと風呂から部屋に戻ると、じっと頑なな表情でトリスが待ち構えていた。
「……なんだよ、テメエ」
「ちゃんと話そう」
「なんだとォ?」
「ちゃんと話そうよ!!?」
何故、自分が怒られなければいけないのか。そう思いつつも、トリスが座る椅子と向き合うかたちでバルレルはベッドに腰を下ろす。
「で、なんだよ?」
「あたしが言ったことで、バルレルが怒ったこと」
「別に今さらどうでもいいだろうが」
「あたしが良くないの!!!」
「……おい、テメエ泣いて」
「泣いてないわよ馬鹿!!!」
怒ってるのか泣いているのか。その両方か、とバルレルはいつもと調子が違うトリスに困惑した。流れてくる感情は、怒りであり哀しみであり……複雑に入り混じり、負の感情を好むバルレルでは計りかねないものだった。怒りであるのに、負と呼ぶには温かすぎる感情。
「バルレルがあたしのこと心配してくれたって知ってるよ。サプレスに送還するって言ったのがそんなにイヤだったの?」
バルレルは目を見開き、トリスをまじまじ見やった。ネスティがいつの間にか言ったのだろうか。探るような眼をトリスはキッと睨みつけた。
「それぐらい解ってるわよ!!? 見くびらないでよ!!! あんたこそあたしを見くびってる、甘く見てる!!!」
本気の怒鳴り声に、一瞬気圧されそうになるのを押し隠し、バルレルも負けじと口を開く。
「なら何でテメエはそんなこと言った? はぐれとかふざけたことぬかしやがって……オレをなめてんのかァ!?」
「そんなのあんたが恐がった理由と同じだよ……今はいいよ!? だけど、いつか置いてくんだ、あたしは……あたし達は、あんたを」
ずっと避けていたものを、直接トリスによって突き立てられた。その衝撃に、バルレルは息が詰まりそうになる。
「なら元の世界に戻った方がいいと思うじゃない!? 最初は無理やり召喚されたんだし、一緒についてきてくれるって言ったけど……あたしがいなくなった後は」
「止めろ」
「いなくなるんだよ」
「止めろ!!!」
バルレルの叫びが部屋に木霊す。いつの間にか、トリスは泣いていなかった。じっと、真っすぐ射抜くようにバルレルを見つめていた。立ち上がり、トリスは俯くバルレルの両手を取った。
「あたしはそこから逃げちゃいけない……召喚師だから、バルレルをこの世界に召喚した責任があるの」
「召喚師なんて嫌いだ……結局テメエらの都合ばかりじゃねえか」
「そうだよ……召喚師じゃなくても、人間なんて自分の都合ばかりだよ。バルレルがいつも言ってる通り。あたしは、あんたを独りぼっちにしたくない……召喚師としてだけでなく、トリス・クレスメント個人としても」
置いていく訳にはいかないのに、絶対にその時はやってくる。置いていくという事実にいつか、直面する。だから、その時に迷って何も出来ないよりは……。
「あたしにも覚悟があるんだよ」
強く、トリスは断言した。空気を凛と震わせる言葉に、バルレルはトリスの瞳を見返す。
「オレは……」
「教えて。バルレルはどうしたい? バルレルにとっての最善を教えて」
どちらも別れに違いないけれど、とは口に出さなかった。
「置いてかないでくれ」
「出来ない」
無慈悲な、絶望的なひと言だった。
「やっぱり、テメエのが悪魔らしいと思うぜ……オレはよ」
「茶化さないで。真面目に、今、答えて」
逃げを許さない言葉は、誓約の言霊よりも強烈だった。いっそ誓約ならば、抗うことが出来たのに。
「置いてくとかじゃねエ……オレを、この世界に」


残してくれ

声にならない声を、トリスはバルレルの手を握りながら受け止めた。


「テメエらが残したモノに、歩いた道に、トリスがいる世界に……トリスがいなくなっても、オレを……」
「馬鹿ねぇ、うん……解ったよ……。置いてくんじゃない、あたしは……あんたを置いてかない」
それこそ、言い換えただけのものかもしれない。それでも、少しでも孤独が和らぐのならば。それは、トリスにとっての願いでもあった。
「悪魔でも泣くんだね……ホラ、あんまりあたし達、変わらない……」
自分より小さな身体を、トリスはぎゅっと抱きしめる。「うるせエ」と口では言いながらも、バルレルは抵抗しなかった。されるがまま、大人しく受け入れる。
「誓約なんてなくたってね、誰かと一緒にいられるんだよ……?」
ちらりとネスティとアメルの顔がバルレルの中で浮かんだ。因縁や呪いが無くても、きっとトリスは同じことを言うだろう。運命を乗り越えると言い切った、トリスならば。
「それが、限られた時間でもあたしの一生、精一杯だから……」
――だから赦してね とは、トリスは言わなかった。


それから、怒り疲れたから寝ると滅茶苦茶な理由でバルレルは部屋を追い出されてしまった。ドアの向こうのベッドを占領してるトリスに恨み言を罵ってから廊下を歩いていると、ネスティと出くわした。
「……ヨォ」
大声で言い合ったのだ。きっと、ネスティにも聞こえていたのだろう。ばつの悪い顔をしつつそのまま通り過ぎようとすると、「バルレル」とネスティが呼び止めた。
「お前なりの覚悟……なんだな?」
確認するような声音に、やっぱり聞かれていることが判明してバルレルは開き直って「それがどうした」と返事した。面倒臭そうな素振りに、ネスティは思わず苦笑した。
「今、ここに生きている時間こそが全てだ……それは僕たちも変わらない。そうなんだな?」
「……フン、テメエが生きていた時間も根暗だったことも、ついでに覚えといてやらァ。だから、せめて長生きするんだな……テメエの妹弟子のためにな」
「ああ、大切な女の子のためにも、僕のためにも」
ふっと悪戯っぽく笑うネスティは珍しかった。バルレルは引き攣った顔で「テメエ、やっぱ根暗でイヤなヤツだったって覚えとくぜ」と皮肉った。心の中は、不思議なほど穏やかだった。
「ああ、そうしてくれ」
「フン。……とりあえず、飯食うかァ」
「賛成だ」
2人は並んで廊下を歩き出す。1人の存在を、胸に秘めながら。





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