まるで道端を迷う猫のように。
……そう、大して差はなかった。ただ、捨てられた記憶さえ少女には無かったけれど。
そんな状況でも、名前だけはしっかり心に刷り込まれていた。そんなもの、何の腹の足しにすらなりはしない。だけど、少女はこの名前が嫌いじゃなかった。
捨てられないもの。きっと、名前は誰にも捨てられることはないと、思ったから。

「トリス!」
呼ばれて、振り返る。ボロボロの布切れみたいな服を着た少女の名前を呼ぶ者は、この街には少ない。大体は、ボロとか、ガキとか、泥棒猫なんて呼び方をされる。我が身を顧みれば、それは妥当だと言えるだろう。
街の隅っこの方にある、パン屋のおばさんはトリスにとって唯一、トリスを人間として見てくれる存在だった。更にいうと、少女であり子供としても扱ってくれる存在だ。
身寄りがない哀れな少女に、飢えない最低限のパンをそっと渡してくれる。毎日ではないが、その恵みでトリスは危険を冒して盗みを働くことをしなくて済む。
生きるためだと割り切っても、やっぱり、嫌だった。
「おばさん、ソイツ近づけんなよ。汚いよ」
その声には聞き覚えがあった。掃除を終わらせて出てきたのは、店で働いている青年。あからさまな眼差しが突き刺さる。それも、妥当なのだ。トリスは自分の両手をきょろきょろ見てから、ふにゃりと笑った。
「ありがと、ごめんね」
「――トリス!……ちゃんと食べるんだよ、今夜は冷えるらしいからねっ!」
労りの言葉が身に沁みる。不相応……まるで逃げるように、トリスは走った。


「店に近づくな、物盗り!」
そうやって追い出されたこともある。だから、あの男の言うことは正しい。
トリスは悪いことをしたのだから。
「だから、大丈夫だよ」
優しくしてくれなくても、と直接言えないのは弱さか。あの恵みが無くなれば、生きていくことが困難になる。特に目的など持っていないのに、何故自分は生きたいのか……。
幼い少女には難しい疑問だった。


「化け物だ!!」
「コイツがやったんだ!!」
惨事は突然起こった。……否、起こったのではなく、トリスが起こしてしまった。
立ち尽くす。見知った街が、風景がボロボロになっているのを。トリスにお似合いの、まるで廃墟。
優しくしてもらうのが心苦しくて、自分でも何が出来るか考えてみた。その結果が、これ。
綺麗な石を見つけたから、ただただ見せたかっただけ。ほっこり、笑顔を見せてくれたら……。
(それじゃあ、あたしが優しくされたいだけ……)
その結果がこれか。トリスは眼を瞠る。両手で顔を覆い隠し泣きわめきたかったが、そんなことしても許されないと覚った。トリスに向けられる人々の眼が、――憎悪が、また突き刺さる。
「―――あんたがやったんじゃないわよ、ねぇ……!?」
恐怖と疑心が織り交ざった声で、おばさんはトリスに呼びかける。
「あんたがそんなことするはず――ッ」
遂にトリスは眼を伏せた。だから、相応しくないよと。
泣いてもどうにもならないことが、あった。



名前を呼んでくれる人は、もう二度と現れないと思っていた。
「……君はバカか?!」
「へへーっ、ネスぅ? あたしはトリスだよ?」
「知らん、バカだ大馬鹿者だ」
召喚師と喧嘩をして相手を殴り倒したという凶犬のようだと喚かれた少女はあっけらかんと笑った。
ネスティは眉間に皺を寄せながらも淡々とトリスの腕や顔にできた傷を消毒していく。こんなもの舐めていれば治るのだが、ネスティの前でそんな『雑』なことは許されない。
――そう、許してくれないのだ。ネスティという存在は。
「後で一緒に謝りにいくぞ。相手の方が大怪我らしいからな」
「――う、ん……」
ほんの少し、心がチクッと痛むのは……。
「あたし1人で大丈夫だよ」
「また喧嘩などされたら大迷惑だ。それに……」
口を閉ざしたネスティの表情をトリスは注意深く窺がう。そこに浮かんでいるのは何だろう。
「……何でもない。腫れてくるから、冷やすんだ。いいな?」
頬に氷を詰めた袋を押し付けられ、トリスは思わず飛び上がった。
「――休むんだ」
「う、ん……」
一旦部屋を出て行ったネスティを見送り、トリスは重いため息を漏らす。
「優しくしてくれなくていいよ」
やっぱり直接言えず、トリスは「う〜〜〜ッ」と頭を抱えて唸った。心苦しさは、胸の中で燻り続ける。
だけど、此処に居座りたくなるのも事実で。
優しくなりたい、と。恐いけど願うのは何故か、今のトリスには解らないのだった。



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