殺戮というより、狂乱。先ほどまで荒野を包んでいた死の臭いは、クラレットにとって珍しいものではなかった。血の臭いは、魔力の香り。死という極限状態と向き合った魂は、どこまでも命を純粋にさせる。それこそが、セルボルト家が得意とする霊界サプレスの生命体が好む魂の光であった。
 ここ数日の間でたくさんのことがあった。クラレットは冷静沈着な少女ではあるが、それでも処理しきれないたくさんのことが……だ。
 まず、魔王召喚の儀式に失敗した実弟との接触。得体の知れない力で復活した若き父の姿。その、全てに絡むであろう制錬者の登場。時間が急激にクラレットを追い立てるようだった。ただでさえ、実弟と義理の兄妹が命を懸けて戦うことになったのだ。
「だからお前は相応しくない」
 ソルなら、そう一蹴するであろう脆さ。強くあろうともがいても、狂気に身を染めようとしても、クラレットはクラレット以外の何者にもなれないのだ。いっそ徐々に壊れていったカシスの方が人として健全なのかもしれない。
「私は……ただ……傍観していただけ……」
 生気の失せた声だった。すらっとした体躯と夜を彷彿させる髪の色、可憐な容貌は美しさより人形のような印象を他者に与える。
 戦場が拡大しそうになった頃合いに、父と制錬者を名乗る青年の指示によって無色と紅い手袋の軍勢は引き揚げた。クラレットも召喚師の一員としてこれから戦列で戦うことになるだろう。そんな状況の中、クラレットは一人こっそり森の中を歩いていた。
 どうしても確かめたいことがあった。戦いの中、誓約者を名乗る少年を庇ったが為に呪いを受けたキールの所在についてだ。オルドレイクが話していた通り、絶命することはない。そして、それは決して救いではなく痛苦……嗜虐的なオルドレイクの得意とする術法の一つであった。これは、クラレットに継がれた才能の一部でもある。それはキールにも言えることであった。
 キールが盟主になった時、支えになる為に才能を磨いてきた。そしてキールが失踪した時から、クラレットにこれまでに無い重圧が圧し掛かった。それは、セルボルト家を絶やさないという使命だ。セルボルト家の血肉を持った存在であることだけが価値だったのだ……。
「キール……私は……あなたを、逃げ道にしてきたのかもしれない」
 甘い、非情になれないと周囲は罵る。しかし、それは違うとクラレットは思う。
 徐々に深まる夜の気配は、同時に森の存在感を際立たせる。召喚術でいかに膨大な力を扱えようと、クラレットは世間を知らない少女でしかなかった。鳥が羽をはばたかせる音にさえ、ビクリと全身が震える。
 独りだと思っていた。しかし、それでも誰かと、誰かに守られながら確かにクラレットは存在していた。そして、遠くにいようと血の繋がりは……たとえ全身の血肉を入れ替えても、断ち切れないと思っていたのだ。
(キール……キール……ッ)
 キールが護衛獣の少年と共に吹き飛ばされたのを目の当たりにした時、実弟との繋がりと実父との繋がりが同時にクラレットを引き裂き、責めた。あんな光景を見るぐらいならば、自らの手で壊せば良かったのかもしれない。
(――どちら、を……?)
 自分の顔が真っ青になっていることにクラレットは気づかない。
 今度は野性の動物ではない……明らかに人間の気配を感じ、クラレットは咄嗟に身を隠した。慎重に、息を殺しながらクラレットは気配の正体に近づく。
(あれは……!)
 ぼろぼろの、満身創痍の少年が、隣に横たわる……キールの胸に刺さったままの呪具を触れようとする手を放し、項垂れていた。
「なんで……なんで、解呪できないんだよぉ……っ!!」
 涙まじりの声は絶望に満ちていた。それは、先ほど同じ戦場で敵対していた少年……『ハヤト』だった。無色の派閥の中で最も危険人物と目されている一人である。実際、戦況が一転するまで見せた少年の力は並外れていた。「誓約者」を名乗っているだけのことはある、人の力を外れた底知れなさ。
 クラレットは倒れたままのキールに視線を移す。もう痛みを感じる様子も無い。ぞっとするような生気のない肌色が、クラレットの心を恐怖で埋め尽くす。
(……あなたが、いなければ……っ)
 キールは、この泣き崩れる少年を……護衛獣であるハヤトを庇って呪いを受けた。遣り切れなさ、底の見えない悲しみがどす黒い殺意に変わろうとした時。クラレットは、目を瞠った。
「……俺が、甘えてたんだな……。俺が、やらなきゃ……いけないん、だよな……?」
 涙で濡れた頬、真っ赤に充血した眼の奥に、先ほどには無かった気丈な光が生まれる。ただのやせ我慢かもしれないが、ふんわり微笑んだ少年の姿にクラレットは眼を奪われた。
 偵察から見せられた映像の中で、二人は年相応の笑顔で、他愛の無い会話をしながら歩いていた。クラレットが見たことの無い弟の姿、世界の風景がそこにはあったのだ。魔王召喚の儀式で身体を差し出さなければならなかったキールは、いつの間にか新たなものを手にして生きていた。
 それが誇らしくあり、嬉しくあり……。
(何で私じゃないんだろうって……憎くもなって、私はっ)
 クラレットたちと向き合う為に現れたキールの窮地を、躊躇いも無く助けに来た少年。キールとハヤトの間には護衛獣だけでは言い表せないものがあった。
(何で、私は囚われたままなのだろうって……キール、あなたのことが愛しいのに!!!)
 ハヤトは、テテを召喚してキールを小さな身体に託した。クラレットには聞こえない言付けをした後、テテは慎重な足取りでキールを抱えて走っていった。おそらく、仲間の元へ連れて行ったのだろう。吐き気を伴うような自分への嫌悪感と無気力感で、その様子を見送るしかクラレットには出来なかった。

「……いつまで、見ているつもりだ……」
 先ほどと同じ少年とは思えない、力のこもった低めの声だった。泣き崩れた弱さを吹っ切る様に立ち上がり、ハヤトはクラレットが隠れた木の方へ向かい剣を向けた。圧倒的な魔力と、痛々しさを感じさせるような不思議な殺意。苛烈な憎悪は、マグマのように純粋だった。
 クラレットは固唾を飲みながら、気配を消すことを敢えて止めてそのまま隠れ続けた。ハヤトとクラレット、視界に触れない二人の間に緊迫した沈黙がしばし流れる。
「――敵意はない、か」
 ハヤトはゆっくり剣を下ろす。表情には憔悴がくっきり浮かんでいた。
「訳は知らないけど見逃してくれたようだからな……俺も、誰か知らないが見逃す。さっさと行け……」
 自分の中で荒れ狂う激情を押さえ込むようにハヤトは言い放った。
 クラレットはゆっくり、立ち上がる。見えない背後のその向こうから、少年の視線を感じた。
「…………」
「さっさと消えろっ!!!」
 乱暴な言葉は、凶暴さよりはち切れそうな痛みをクラレットに与える。
「ごめんなさい……っ!」
 クラレットは走った。その場から、逃げたのではない。あの少年は、クラレットが立ち去った後にまた泣くであろうから。ぼろぼろになった戦鬼のような仮面を、殴り捨てて。
 キールの隣で笑っていた少年の姿は、もういない。キールも、キールを変えた少年も、キールが望んで手に入れた世界も。
(これが……あなたの願ったことなの? クラレット……)
 答える者は、自分以外に誰もいない。眼を伏せようとも、脳裏に浮かぶ鮮烈な痛みと殺意が、クラレットを金縛りのように捕らえて放さないのであった。



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