最初の夜は、安心して休める場所を得ただけで気が抜けて即寝てしまった。
 リィンバウムという謎の異世界に原因も分からないまま来てしまったハヤトにとって、フラットは本当に有りがたい場所となった。年上の大人から、同世代と、幼い子供たち。一緒に暮らすメンバーはバラバラで、フィズとラミ以外は血の繋がりがないことをガゼルから聞いた。
 大変なんだなと思いつつ、不安と新しい共同生活への好奇心があった。修学旅行の夜、眠れずに友達と大騒ぎするような感覚に近い。そんなものは、厳しいサイジェントの現状を目の当たりにしてすぐに打ち砕かれてしまったが。
 そして、共同生活においてハヤトが慣れないことがもう一つあった。

「なんでそう嫌がるのよ!?」
「い、嫌だとかそういうんじゃなくてさ……!」
 朝から騒がしいフラット。その喧騒の発生源は、ハヤトの部屋の前であった。
「さあ、さっさと籠に入れて! 朝は忙しいんだからっ!」
 ハヤトの前にずいっと差し出されたのは、何も入っていない籠だ。リプレは物々しい威圧感を崩さず盛大なため息を漏らすという器用なことをやってのけた。
「嫌じゃないなら、さっさと出して!」
「じ、自分の洗濯ぐらい自分でするって!」
 ハヤトの母が聞いたら「そんなこと言い出すなんて!?」と驚くことをハヤトは口走った。共同生活なのだから、こういう事態になることは想定できること。そして、家事を一手に担うリプレが当然洗濯もすると分かりきったことである。しかし、同い年の女の子に洗濯を頼むことに抵抗を感じる。
 ハヤト自身、こんな心境になるということを実際起こるまで分からなかったのだ。
「そんなの洗剤と水と、何より時間の無駄でしょ?! ガゼルもアルバもエドスのも、私が責任持って洗ってるんだから!」
 尚、レイドは重鎧もあるし剣士の嗜みだから自分で手入れする……と言ってかわしている模様。これは前も洗濯で騒いでいたのを見たガゼルからの情報だ。その理由は、ハヤトには当然利かない。
「ったく、慣れればいいじゃねーか。ラクだぞ?」
 ハヤトの部屋の前を通り歩きながらガゼルが観念しろ、と促す。
「そ、そりゃガゼルは昔から一緒なんだからそうかもしれないけどな……!?」
 ちょっとは味方しろよ、と恨めしい目線を送ると、ガゼルは「ま、無駄なことは止めちまえ」とさっさと行ってしまった。
「もう、これからずーっとこうやって抵抗する気? 正直に言って。私じゃ安心できない?!」
 リプレにはリプレなりの誇りがある。フラットの皆の生活面を支えているという、ささやかな自負だ。それを、こうも拒否するからには理由があるのだろうが、普段は快活なハヤトがこの状況になると歯切れが悪い。
「そうじゃないんだ、えーっと……」
 リプレのチョコレートを溶かしたような色の瞳が、じっとハヤトを睨む。その中には苛立ち以上に困惑が見え隠れして、ハヤトは降参するしかなかった。これ以上の抵抗は、リプレを傷つけてしまうだろう。
「その……正直言うと、恥ずかしいというか……」
「へっ?」
 呆気に取られたような反応で、余計にハヤトは気恥ずかしくなる。
「ええーと! 同い年の女の子に自分の服とか下着を洗濯させるのが、なんか」
 言いながらハヤトはグッタリした。こんな経験も、心境も、今までのハヤトには縁が無かった。オプテュスと戦闘をした後より何故か疲れている。
「恥ずかしかったんだよ……これが、理由……です」
 最後は投げやりな丁寧語になった。はぁぁ……と顔を少し赤くしながら肩を落とすハヤト。
「……ふふっ」
「?」
 顔を上げると、リプレが笑いを堪えていた。怪訝そうに見つめると、「ああ、ごめんなさいっ」とリプレは慌てて笑いを引っ込めた。顔には穏やかな笑顔が浮かんでいる。
「なんかね、ハヤトの反応が新鮮で……。いいのよ、それって私に気を遣ってくれたってことでしょ?」
 そういうことになるのだろうか、と僅かに首を傾げつつ、「あ、ああ」とハヤトは返事した。
「でも、それとこれは別!! 時間の無駄だからさっさと脱いで着替えてっ!」
「〜〜〜ううっ、分かりました」
 そもそも、リプレに逆らう時点で間違っているのだ。ハヤトが観念して一旦部屋に戻ろうとしたと同時に、隣のドアが開いた。
「あら、おはようクラレット」
「おはよう……ございます……」
 起きてくるのはいつも昼前のクラレットにしては、早い時間帯だった。
「どうしたんですか、何か言い争いでも……?」
 すぐ隣の部屋の前で騒いでいたのだから、起きるのも無理はない。苦笑しつつ、ハヤトは「なんでもないよ、ごめん!」と謝った。
「そうですか……?」
 不思議ながらも、眠気が覚めない頭をクラレットは頷かせる。
「ああ、そうだ。ハヤト達の後に洗濯するから、クラレットも着替えて洗濯物を籠に入れといてね」
「分かりました」
 そう答えたクラレットはおもむろに上の寝間着を脱ごうと手を動かし始め、ハヤトとリプレは同時に「待った――ッ!?」と慌ててそれを制止した。
「……? 洗濯に出すのですよね?」
「ま、待ってクラレット。今すぐじゃなくていいから!! それにハヤトがいるでしょ!?」
「それがどうかしましたか?」
 クラレットの反応に二人は絶句する。
「ええと、一応、ハヤトは男の子なんだから、そんな前で女の子が肌を見せちゃダメ!」
「い、一応って」
 ハヤトは苦笑すると共に、まだ心臓がバクバク鳴ってるのを自覚した。胸元までめくり上げるのは直前で止められたが、視界に入ったクラレットの腹部の白い肌はハヤトにとって十分刺激となった。ハヤトは二人に背を向け、深呼吸を試みる。
「……分かりました」
 耳を赤くさせているハヤトと、クラレットのために叱ったリプレ。それぞれ二人を見やってから、クラレットは納得したように寝間着を整えお辞儀した。そして、ぱたんと再び自室に戻っていってしまった。
「……ハヤト、ちょっと得したとか思ってないでしょうね〜?」
 じーっと視線を投げてきたリプレに、慌ててハヤトは首を横に振った。
「そ、そんなことないって!? 驚いたけど……」
「うん、私も。召喚師って、そういう感覚なのかしら? それはそうと、ハヤトは洗濯物を出しといてね!?」
 念を押されてしまい、ハヤトは「はい」と素直に返事をしてから部屋に戻った。リプレが忙しい毎日を送っているのは知っているので、協力するのが当然だろうと自分に言い聞かせて。
 同時に、先ほどのクラレットの行動を思い出す。「得をした」というより、リプレに言った通り驚きが勝った。どこか浮世離れした雰囲気はあったが、それはリィンバウムの中に於いてもそうだということか。
「――つ、疲れた……」
 まだ、朝が始まったばかりというのに。ベッドに寝転んでハヤトは嘆息した。



 一方、クラレットは淡々と着替えを始めていた。女の子の部屋だから、という理由で設置された鏡に映る裸体は傷一つない。真珠を思わせる肌は見る者に無機質な美しさを感じさせる。
 それらは、供物として丁重に扱われてきたものだった。
「男の子に……女の子、ですか……」
 先ほどの慌てふためいたハヤトの表情を思い出す。ふわりと、口元が綻んだことにクラレットは気づかなかった。



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