短い髪をばさばさに散らかし戻ってきたトリスを見て、ネスティは唖然とした。
元より身だしなみをそれほど気にかけている様子はない少女ではあった。しかし、明らかに様子がおかしい。いつもなら帰っている定刻に姿が見当たらないことに気づき、念のためにトリスの部屋の前まで確認しにきたのだが……。
消灯時間が迫る薄明かりで気づかなかったが、頬には明らかに引っ掻き傷がある。
訝しげに見つめてくるネスティに、トリスはわざとらしくニカッと笑った。
「大暴れするネコと格闘してたの」
「……もっとマシな嘘をつくんだな」
「師範とネスには迷惑かけないから!」
「既にかけているだろう。……!」
トリスの右手から血が垂れていることに気づき、ネスティは荒っぽく掴みあげた。
「どうしたんだ、これは……!?」
「だいじょうぶ、だいじょうぶだから!!!」
関わるな、とトリスの眼が強く訴える。普段はのんびりした少女だが、時折驚くほどの頑固さを見せることがあった。ネスティはぐ、と唇を少し噛んでから手を離した。
「……明日も朝から魔力の制御について指導してくださるそうだ。遅刻するなよ」
「うん」
ほっとした表情でトリスは頷き、ささっとドアを開けた。
「また明日!!!」
元気を振り絞った声で言ってから、ドアはぱたんと閉じられた。それを見届けてから、ネスティは微かに吐息した。踵を返し、ゆっくり歩き出そうとすると。
――くぐもった嗚咽が途切れ途切れで聴こえてきた。必死に抑えようとしている、声。
「……馬鹿が」
腹立たしさを飲み込み、ネスティは誰もいない廊下を再び歩き出した。
ネスティは自室に戻ると苛立ちを隠さず音を立て椅子に座り込んだ。
トリスが蒼の派閥に来て、どのぐらい年月が過ぎただろうか。ネスティが知らない間に多少の交友関係も増えただろう。積極的に友人を作っている風にも見えないが……。
そして、誰もが知る『成り上がり』という立場が悪目立ちをして、因縁をつけられているらしいことも気づいている。今まで大きな怪我をしていないこと、そしてトリスなりにネスティ達に気づかれたくないと思っているのは明白で、深く言及したことはない。
ぬるりとした感触に気づき、ネスティは自分の掌を広げた。いつの間にか椅子にも付着している、トリスの中に流れていたもの。
「成り上がりか……どちらが幸せなのか」
這わせた舌が舐めとったそれには、トリス自身すら知らない意味が隠されている。それを知っていること、憶えていること。2人が生まれ、何かを願う前からこの世にあり続ける因縁であり絆そのものだった。
頬の傷の赤みが薄くなっていることを確認して、トリスは「よし」と気合いを入れ直す。
なんとか遅刻は免れそうな時間だった。軽い足取りで長い廊下を走っていると……。
「……?!」
廊下の壁に貼り出されているポスターの中に、見知った……というより、昨日一悶着した面々の顔がズラリと並んでいた。自分の目を疑ったが、改めてトリスは紙面に書かれた文面に目を通した。
「……処分……刃物を使用にて……昨日の……?」
意味をやっと理解して、トリスは慌てて目的の部屋まで走った。
「ネス!!! 廊下の、あれって……!!!」
「トリス。師範はまだ見えてないとはいえ、ギリギリだぞ」
「ネス、はぐらかさないで!」
怒気をはらんだトリスの言葉に、ネスティはやれやれと肩を竦めさせる。
「手を出すなと言いたいのは解るが、ただの喧嘩と呼ぶにせよ私闘は元より禁止、更に刃物使用は厳罰がくだされる。当然のことだ」
「……でもっ、あたしだって、殴り返したから……」
だから、これでおあいこだと。終わりにしようと思ったのだ。どす黒い怒りと憎しみをずっと持て余すなど、トリスには出来ないのだから。
「その程度のことで、君は……こんな傷をつくったのか」
苛立ちを隠さずネスティは昨日と同じようにトリスの手を取った。裂傷があった箇所は包帯で雑に隠されている。
「その程度のことで、君は血を……」
「――ネス?」
不安の入り混じった顔をして見上げてくるトリスに、ネスティは「なんでもない」と慌てて手を離した。
「ねぇ、顔色良くないよ……ネス?」
「なんでもない……」
「――うん……」
しゅんとしたトリスに一瞬罪悪感が過ぎったが、ネスティはそのまま黙り込んだ。
喉の奥に、昨夜の紅い味が蘇る。まるで自分を内側から黒く染め上げられたような気がして眩暈がした。吐き気さえ伴うそれは、そのまま全て染まることを受け入れれば……どこまでも甘く、冷たい底へ沈んでゆけるものへ変わるだろう。
「……ネス、だいじょうぶ……なんだよね?」
「ああ」
その黒は、今ではどちらから生まれたのか解らない。
混じりあい、更に黒く黒く……何者にも侵されない純粋な罪の色。
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